2021-01-01から1年間の記事一覧

新古今の景色(97)院政期(72)寂蓮の遁世(10)詠歌行脚(3)聖地-2

(5)箱根の山越え 『寂連集』より 寂連法師10月ばかりに、あづまのかたへまかりけるに、はこねといふ 山をなんこえける、所のありさまあやしく、よのつねにはかはれりけり、 はるかに嶺に上りてはうみをわたり、谷にくだりては雪をふむ、さる程 に、風は…

新古今の景色(96)院政期(71)寂蓮の遁世(9)詠歌行脚(2)聖地-1

先回は、寂蓮の詠歌行脚から贈答歌を採り上げたが、次は信仰、和歌、並びに物語に因んだ聖地巡りで詠んだ歌を2回に亘って採り上げてみたい。 (1)『伊勢物語』の芦屋の灘の塩屋を訪れて、『寂蓮集』より 養和元年(1181)頃に、寂蓮が摂津の国の芦屋に塩…

新古今の景色(95)院政期(70)寂蓮の遁世(8)詠歌行脚(1)贈答歌

寂蓮は34才で出家する承安2年(1172)年前後から治承4年(1180)6月の福原遷都の頃までは難波の地への塩湯浴み・高安の都・大神神社・いわれの池・磯上寺・人麿の墓所・北山の二条院の墓所・布引の滝・住吉神社等へ旅をし、その後は、建久元年…

新古今の景色(94)院政期(69)寂蓮の遁世(7)暴風に見舞われた嵯峨の庵

34才の藤原定長が承安2年(1172)に出家をして寂蓮と称した後の消息について、後鳥羽院に仕えて和歌所の事務長を務めた源家長は『源家長日記』で次のように記している。 「世の事わりは昔もおぼしめししりけめども、此比ぞみちみちにつけてはいづれも…

新古今の景色(93)院政期(68)寂蓮の遁世(6)僧界もまた苛烈な俗世

寂蓮が生きた時代は、公家(※1)・公卿(2)といえども長子に家督を継がせるのが精々で、それ以外の男子を高官に着任させるほどの権力は既に持ち合わせておらず、それでも家の威光と財力を有する公卿は息子を延暦寺・醍醐寺・興福寺・仁和寺などの官寺(※…

新古今の景色(92)院政期(67)寂蓮の遁世(5)出家・遁世の時代

寂蓮の出家の背景については、歌の家「御子左家」の確立を目論む藤原俊成の要望で養子になったものの、俊成が49歳の時に誕生した定家こそ後継者にふさわしいと自ら身を引いたとの理由が一般的であるが、それはそれとして、私は当時が「出家・遁世の時代」…

新古今の景色(91)院政期(66)寂蓮の遁世(4)出家を巡る贈答歌

藤原定長が出家をして寂蓮と称したのは34才の承安2年(1172)頃とされるが、その直前の承安元年2月15日に嵯峨の釈迦堂(清涼寺)を詣でた折に、彼の出家の戒師を務めたとされる静蓮(※1)に出家を約した時に交わした次の贈答歌が『寂蓮集』に収めら…

新古今の景色(90)院政期(65)寂蓮の遁世(3)『歌仙落書』の評価

定長が出家する直前の承安2年(1172)に成立したとされる『歌仙落書』は、藤原公光・藤原清輔・徳大寺実定・藤原為経(寂超)・小侍従・殷富門院大輔・二条院讃岐など、当時の代表的な歌人20人の詠歌を収めたもので、定長もその1人として4首が収め…

新古今の景色(89)院政期(64)寂蓮の遁世(2)御子左家の後継時代

『尊卑分脈』(※1)によれば、藤原定長(寂蓮)は久安年間(1145~1150)の末頃、藤原俊成の養子になっている。この時、俊成には既に嫡男の成家がいたが、彼に歌道の御子左家(※2)を継がせる才能はないと見切りをつけた俊成が、当時12、3才な…

新古今の景色(88)院政期(63)寂蓮の遁世(1)中務少輔定長

鎌倉初期の歌人で後鳥羽院設置の和歌所の寄人となり、栄えある『新古今和歌集』の撰者に選ばれながら撰進の途中に没した寂蓮は保延5年(1139)頃に生まれ、建仁2年(1202)頃に64才で没したとされる。 寂蓮の俗名は藤原定長、醍醐寺の阿闍梨(※…

新古今の景色(87)院政期(62)歌林苑(52)融通無碍の空間

摂家相続流の前大僧正を初めとする藤原氏、共に戦場に散る運命にあった源平武士、六条藤家を代表する歌人、下級貴族、年配の女官、神官そして遁世僧、身分・階層の敷居が極めて高い院政期にあって、このような多様な人々が、歌風、流派を超えてひたすら歌へ…

新古今の景色(86)院政期(61)歌林苑(51)会衆の特色

これまで、主唱者の俊恵からスタートして最後の紀康宗に至る歌林苑の会衆(常連メンバー)を『千載和歌集』と『新古今和歌集』に入集した歌と略歴で結んで、会衆個々の横顔らしきものを描いてきたが、全体を分類すると次のようになる。 (1)源平武家歌人=…

新古今の景色(85)院政期(60)歌林苑(50)下級貴族(4)紀康宗~地下ながら殿上の栄誉に浴せたか

紀康宗(きのやすむね)の生没年は未詳。紀氏、土佐権守光宗の息子。六位雅楽充。 紀康宗が勤めた雅楽寮(ががくりょう又はうたりょう)は、律令制で治部省に属し、宮廷音楽の楽人管理、歌舞教習などを司った役所。(うたのつかさ)とも。長官は雅楽頭。 本…

新古今の景色(84)院政期(59)歌林苑(49)下級貴族(3)源有房~斎院式子内親王に長官として仕える

源有房の生没年は未詳。伯太夫と称す。神祇伯顕仲の息子、あるいは仲房の息子か。仁安2年(1167)斎院長官、正五位下。久安5年(1119)『山路歌合』出詠。『千載和歌集』初出、3首入集。 ところで、源有房が務めた斎院長官の斎院とは、平安時代から鎌倉時…

新古今の景色(83)院政期(58)歌林苑(48)下級貴族(2)源季広

源季広(すえひろ)の生没年は未詳だが、文治3年(1187)頃までは生存したとされる。醍醐源氏、木工権頭秊兼の息子。正五位下下野守に至る。嘉応から治承の間(1168~1181)の歌合に出詠。『千載和歌集』初出、1首入集、『新古今和歌集』1首入集。 当時の…

新古今の景色(82)院政期(57)歌林苑(47)下級貴族(1)藤原資隆

藤原資隆(すけたか)の本名は秊隆、法名は寂慧。生没年未詳で文治元年(1185)9月には存命。道兼流、従五位上重兼の息子。従四位下少納言。家集『禅林瘀葉集』。『千載和歌集』初出、2首入集、『新古今和歌集』1首入集。 藤原資隆についての消息は残され…

新古今の景色(81)院政期(56)歌林苑(46)惟宗広言 和歌~今様(2)後白河院の愛弟子へ

【広時(広言の誤記)、『(後白河院の)御歌も聞かぬ田舎より上りたるが、かく露違わぬ事の、ものの筋あわれなること(驚嘆すべき筋合いのことがら)』]とて、流涕するを(涙を流すのを)、人々これを笑ひながら、皆、涙を落とす。】 上記は、自ら今様狂い…

新古今の景色(80)院政期(55)歌林苑(45)惟宗広言 和歌~今様(1)歌人

惟宗広言(これむねひろとき)は代々大宰府府官の日向守基言の子として生まれ、生没年未詳だが承元2年(1208)に75才で没したとされる。大宰少監を経て文治二年(1186)に五位筑後守。 広言は、崇徳院の近臣で保元の乱後に配流された藤原教長(※)、歌林苑…

新古今の景色(79)院政期(54)歌林苑(44)祝部成仲~乱世の93歳

祝部成仲(はふりべのなりなか)は、日吉禰宜成美の息子として康和元年(1099)に生まれ、建久2年(1191)に93才で没している。日吉禰宜総官、正四位上大舎人頭。歌人としては家集『祝部成仲集』を著わし、勅撰集では『詞華集』初出、『千載和歌集』7首入…

新古今の景色(78)院政期(53)歌林苑(43)源通清~遁世した父の代詠

源通清は正四位下斎宮尞頭清雅の息子で保安4年(1123)に生まれで没年未詳。治承4年(1180)58才で五位蔵人に補され、従五位下。治承2年(1172)『広田社歌合』に出詠。『千載和歌集』初出、1首入集。 『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中 源清雅九月ばかり様…

新古今の景色(77)院政期(52)歌林苑(42)賀茂政平~歌に願いを

神官の賀茂政平の生年は未詳、安元2年(1176)6月没。神主成平の息子。四品片岡社禰宜。承安2年(1172)の『広田社歌合』、及び正二位大納言藤原実国、壇ノ浦で敗死した平経盛、藤原重家がそれぞれ開催した歌合に参加。『詞華集』初出、『千載和歌集』5首…

新古今の景色(76)院政期(51)歌林苑(41)藤原盛方~平忠盛の歌才を受け継いだ孫

藤原盛方は保延3年(1137)に生まれ、治承2年(1178)に享年42才で没した。盛方のように生没年がはっきりしているのは身分の高い出自を物語っており、彼の父は中納言顕時、母は平忠盛(※)の娘。従四位下中宮大進、出羽守。仁安から治承(1166-78)頃に歌…

新古今の景色(75)院政期(50)歌林苑(40)藤原伊綱~素覚の息子

素覚(※1)の息子・藤原伊綱(これつな)の生没年は未詳だが、建仁2年(1203)迄は生存したとされ、姉妹に皇嘉門院に仕えた尾張(※2)。五位中務大輔。治承2年(1178)「別雷社歌合」、正治2年(1200)『石清水若宮歌合』に出詠。『千載和歌集』初出、…

新古今の景色(74)院政期(49)歌林苑(39)藤原敦仲~道因の息子

道因(※1)の息子の藤原敦仲(あつなか)は、生没年未詳で本名が憲成。父の道因(俗名・敦頼)の極官が従五位上右馬之助に対して敦仲の極官は従五位下式部大輔であった。治承2年(1178)『別雷社歌合』に出詠。道因は『現存集』(散失)を撰したのを継いで…

新古今の景色(73)院政期(48)歌林苑(38)参河内侍(2)西行と二条院追悼

参河内侍は二条院に出仕していた頃は既に歌人として知られ、二条院から求められて詠んだ歌が『新古今和歌集』に採られている。 『新古今和歌集』 巻第七 賀 歌 二条院御時、南殿(なでん)の花の盛りに、歌よめと仰せられければ 733 身に代へて 花も惜し…

新古今の景色(72)院政期(47)歌林苑(37)参河内侍(1)寂念の娘

院政期は出家・遁世の時代でもあった。父あるいは夫が遁世したとき妻子の人生はどのような影響を受けるのか、は、私の関心の一つである。 例えば、保延6年(1140)、23才の若さで突然出家遁世して周囲を驚かせた西行には妻と幼い娘が居たが、西行の妻は夫…

新古今の景色(71)院政期(46)歌林苑(36)藤原教長~崇徳院歌壇の残像

藤原教長(のりなが)は天仁2年(1109)に師実流大納言忠教(※1)と大納言源俊明の娘との間に生まれ、参議左京大夫正三位に昇りつめたが、崇徳院(※2)近臣であった事から保元の乱後に出家したものの捕らえられて常陸へ配流、応保2年(1162)召還され、…

新古今の景色(70)院政期(45)歌林苑(35)素覚

素覚法師の俗姓は藤原家基。長家流、伯耆守藤原家光男の息子で生没年未詳。伊綱(歌林苑会衆)及び、尾張(※1)の父。出家前の官位は刑部少輔従五位下。永暦元年(1160)~嘉応2年(1170)頃に出家したとされる。 主な参加歌合は、出家前の永暦元年(1160…

新古今の景色(69)院政期(44)歌林苑(34)空仁(4)最晩年の西行の評価

空仁の消息を伝えるほぼ唯一とも云える西行の語りを記した『残集』から、あくまでも西行の視点で空仁像を描いてきたが、最晩年における西行が空仁を偲んで語った次の言葉はなかなか意味深長である。 申(まうし)続くべくもなきことなれども、空仁が優(いう…

新古今の景色(68)院政期(43)歌林苑(33)空仁(3)西行の出家

出家前の西行と西住が空仁を訪れて過ごした法輪寺は、嵯峨の大井川の近くにある虚空蔵菩薩を本尊とする寺で、この時、空仁が籠もって法華経の暗誦に励んでいたように、法輪寺は初学の人が籠もって学問の成就を祈る寺としても知られていた。 ところで、出家前…