同比、俊成卿女、出家すとて申しける
① 296 君が代の 春は千年と祈りおきて そむく道にも猶頼むかな
(順徳天皇の長久を祈り)
② 297 忘るなよ 言の葉におく色もあらば 苔の袖にも露の哀を
(出家後も私をお忘れにならないように、私はこれからも歌道に
精進しますので)
③ 298 捨てはつる この世ながらも故郷の しのぶの草にかかる露かな
(出家しても我が子を思うと涙にくれます)
返し
② 299 祈りおく 言の葉よりぞ残りける いかなる春の露のかたみも
(これからも絆が切れることはない)
① 300 思ひいでん 昔をとはばこたへなん そむく道にも有明の月
(出家しても昔を思い出して 私に歌を寄越せば答えよう)
③ 301 この世をば さてもいかにと故郷の しのぶにたへぬ軒の白露
(それにしても、何故出家をするのか)
上に掲げたのは、順徳天皇の自選集「紫禁和歌集」に収められた、俊成卿女の出家を巡って17歳の若き天皇と俊成卿女が交わした贈答歌です。○数字は対応順。
後鳥羽院鍾愛の第三皇子の順徳天皇は、『新古今和歌集』が完成した承元4年(1210)に14歳で即位し、建保元年(1213)に内裏歌壇を開始しているが、俊成卿女はその年の2月7日に43歳で出家して天王寺に参籠し、この出家によって夫・通具との関係を完全に消滅させたのであった。
※中世における夫存命中の妻の出家は婚姻の解消を意味し、出家によって
世俗女性を縛る制約から放たれて、自由な立場を手にする事であって、
遁世を求めた出家とは異なる。
若き天皇とベテラン女房とが三首もの贈答歌を交わし、それを天皇自らの自選歌集に載せるという例を見ない親密さは、おそらく後鳥羽院の要望で俊成卿女が東宮時代からの順徳天皇の教育係の一人を勤めていたからと思われる。
そして順徳天皇歌壇は、承久3年(1221)まで内裏歌壇活動を活発に展開され、若い天皇とその近臣たち、そして、ベテランの新古今歌人、中でも藤原定家、家隆が指導的な役割を果たして、「内裏名所百首」が代表的な催しとして挙げられている。
他方で、俊成卿女はこの出家後、順徳天皇の側近から離れるが、歌人としては変わらずに積極的に出詠していた。
もし、承久3年(1221)の父・後鳥羽院が起こした承久の乱に連座して順徳天皇が佐渡に配流されることがなかったなら、譲位後に順徳院として勅撰和歌集を編纂させていたのではないだろうか。
参考・引用文献:『異端の皇女と女房歌人~式子内親王たちの新古今集』
田渕句美子 角川選書