ここで『新古今和歌集』に入集した女流歌人の名前と入集歌数を一覧すると、
式子内親王49首、俊成卿女29首、二条院讃岐16首、宮内卿15首、
殷富門院大輔10首、宜秋門院丹後9首、小侍従・八条院高倉・七条院越前が各7首、
七条院大納言3首、信濃(後鳥羽院下野(ごとばいんのしもつけ))(※1)2首、
八条院六条・参河内侍・高松院右衛門佐・七条院権太夫が各1首、
となり、そこから見えてくるのは、宮内卿と俊成卿女が歌壇に登場した建仁元年(1201)は、新旧女流歌人の交代期にあたっていたということであろう。
先ず挙げられるのは、後鳥羽院が歌人として最も尊敬していた叔母の式子内親王はこの年の1月に五十歳頃で逝去し、さらに旧世代に属して、前年に七十歳位に没した殷富門院大輔を除いて、二条院讃岐・宜秋門院丹後・小侍従は既に八十歳前後で歌壇の一線から身を退くか出家をして、「念仏の妨げになる」と歌壇に召されるのを渋る者もいた。
次に挙げられるのは、八条院高倉、七条院越前、七条院大納言、信濃(後鳥羽院下野)など、上皇や女院の側近として仕える上臈女房たちで、彼女たちは、後鳥羽院の指示あるいは要望に応えて歌壇の「歌合」に詠進しただけで、後鳥羽院直属の女房ではなかった。但し、七条院越前は歌才を評価されて後鳥羽院の女房になったと「源家長日記」に記されている。因みに七条院は後鳥羽院の生母である。
最後に挙げる俊成卿女と宮内卿は、当初から歌才で評価されて後鳥羽院直属女房として召されて歌壇に加わった女房歌人であり、彼女たちは、後鳥羽院の日常生活に奉仕するのではなく、院直属の女房歌人として後鳥羽院歌壇で活躍することが任務とされた。
俊成卿女が後鳥羽院女房になった時、藤原定家は『明月記』に「それは和歌の才能によって院から召された」と述べており、このことは、「専門歌人女房」の誕生を意味している。
かつての、小侍従や殷富門院大輔、大きく遡って和泉式部、清少納言、小野小町が活躍した時代の、宮廷や後宮のサロンにおいて、日常生活の中で、社交を深める為に、あるいは、恋のやりとりとして相聞歌や贈答歌を詠む時代は去って、後鳥羽院が主導する歌壇で、宮内卿や俊成卿女に求められたのは、五十首歌・百首歌などへの出詠や、「歌合」への出詠が求められ、かつ、競技相手に勝つ力を備えた「専門歌人」としての役割であり、ここに、従来の女房歌人との大きな違いがあった。
(※1)信濃(鳥羽院下野):社禰宣i祝部成仲の孫。允仲の娘。はじめ皇后宮に仕えたが、建仁三年(1203)頃、後鳥羽院に仕えるようになり、まもなく院の近臣であった源家長の妻となった。『新旧女流歌人』初出、2首入集。勅撰入集計26首。「女房三十六歌仙」。
参考文献:『異端の皇女と女房歌人~式子内親王たちの新古今集』
田渕句美子 角川選書
『新潮日本古典集成 新古今和歌集 下』久保田淳 校注 新潮社