新古今の景色(133)院政期(108)女房歌人の発掘(7)俊成卿女(2)「下萌えの少将」

離縁した夫・通具の実家の土御門家は、義父の通親と共に通具が揃って和歌所の寄人に任命されるほど和歌に長じた権門であった。

 

特に義父の通親は、若い頃の嘉応2年(1170)秋には自邸で歌合を催し、さらに同年催された「住吉社歌合」、「建春門院滋子北面歌合」及び治承2年(1178)の別雷社歌合などに積極的に参加していた。

 

また、正治2年(1200)の秋に初めて自邸で「影供歌合(※)」を催したのを機に、その後も度々催して、建仁元年(1201)3月に催された「影供歌合」に後鳥羽院がお忍びで参加した時には、通親の勧めで俊成卿女は「新参(いままいり)」という作者名で新参女房のごとく出詠して6首の内4首で勝ち、そこで後鳥羽院は彼女の歌の才能に驚いたとされる。

 

そして、その「影供歌合」から遠からずして俊成卿女は宮内卿と前後して後鳥羽院に召し出されたが、そのときの彼女は31歳、15、6歳の宮内卿とは倍の年齢差があり、その上、夫の通具は後鳥羽院乳母の従三位按察(あぜち)の許に通い、彼女の手元には一女と生まれたばかりの一男具定(ともさだ)が残されて失意のどん底におかれていた。

 

その頃の俊成卿女について和歌所の事務方責任者を勤めていた源家長は『家長日記』に次のように述べている。

 

  ~よのまじらひもむもれすぎ給(たまひ)けんに、つねに歌召されなどし給を、わかひきたるさまを、あはつけしと思ひ給らんかし~

 

 【生ひたちもあまり華やかでなく、世間とのつきあいも地味で、どちらかといえば、これまで埋もれてきたような人だが、このところ、しきりに後鳥羽院から歌の提出を求められるので、そうした事で、他の若い歌人たち(越前・宮内卿八条院高倉・七条院大納言など)と、出来映えを競うような自分を若ぶって軽率なことと考えているらしい】 

 

しかもそのときの俊成卿女は他の女流歌人のように女房名を持たず、父・盛頼がが「獅ヶ谷の変」後に復帰したときの官位が少将であった事から「少将」と呼ばれていた。

 

しかし、やがて、次の歌によって俊成卿女は「下萌えの少将」との名を轟かせることになると共に、後鳥羽院の「巻頭歌に俊成卿女の歌を据えよ」との強い(推し)によって『新古今和歌集』巻第十二、恋歌二の巻頭を飾る栄誉を賜ることになる。

 

    五十首歌たてまつりしに、雲ニ寄スル恋

                  皇太后宮大夫俊成卿女

1081 下もえに 思ひ消えなむ 煙(けぶり)だに 跡なき雲のはてぞかなしき

  【心の中であの人を思って私は死んでしまうでしよう。そしてなきがらを焼く煙で

     すら雲にまぎれて跡形もなくなってしまうでしよう。そのような恋の何と

        悲しいこと】

 

(※)影供歌合(えいぐうたあわせ):影供のために行う歌合。特に柿本人麻呂の影像を祀ってその前で行う歌合。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集 下』久保田淳 校注 新潮社

                  『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書