新古今の景色(130)院政期(105)女房歌人の発掘(4)宮内卿(3)長寿な兄

ところで、後鳥羽院が最初に見いだしたのは宮内卿の兄・源具親(※)であった。建仁元年(1201)7月に後鳥羽院は寂蓮と共に具親を和歌所寄人として召し、その兄に続いて宮内卿も召されたのであった。

 

その当時の具親について、和歌所の事務長の源家長は『家長日記』では次のように記している。

 

【この人は、右京権太夫入道師光の子である。仁和寺のほとりにかすかな様子で住んでいたが、召し出されてやがて兵衛佐(ひょうえのすけ)になされたのを、父の入道は涙も拭いきれぬまで喜ばれたのは、もっともなことだと思われた。

 

いえばお気の毒なことに、具親もこれほどまでに沈みはててしまわれるような血筋でもないのだ。それを父の師光のことの関わりから出仕できず詫びすんでおられたのだった】

 

父・師光の祖父は堀川左大臣俊房、父は小野宮大納言師頼であるのに、師光自身は閑職の正五位下右京権太夫で終わっているのは、師光が保元の乱で破れた藤原頼長の猶子であったためとされ、父の没落に伴い具親も都の外れで詫び住いをせざるを得なかったのである。

 

ところが、具親は召し出されて間もない建仁元年(1201)の八月十五夜に、和歌所で催された「撰歌合」の場を早退して後鳥羽院の偏愛ともいえる異常な扱いを受けている。

 

この「撰歌合」の夜は常よりも清明な名月で、一点の曇りもなく晴れ渡った夜空に後鳥羽院も深く感動していたというのに、具親は急な用事が出来たと和歌所を早々と退出したのであった。

 

具親のこの行動に後鳥羽院は大いに落胆して「よべ(昨夜)の月にしも具親早出したること、くちをしさ思ひしずめがたし。早くわか所にめしこむべし」との命をうけて、翌日家長が使いを遣ると具親は恐縮して参上したので、後鳥羽院の命令通り彼を和歌所の一室に押し込めたと「家長日記」に記している。

 

その、「撰歌合」は、具親の妹の宮内卿にとって、後に撰者4人の評価を受けて、『新古今和歌集 巻第五 秋歌下』に入集することになった下記の歌を詠んだ晴れの場でもあったのに。

 

 479 まどろまで ながめよとての すさびかな 麻のさごろも 月に打つ声

   【月の光の下、誰かが麻衣を打つ砧の声が聞こえてきます。これはきっと

    わたしにまどろまずに月をじっと見つめなさいというので、手すさびに

    している業なのですね】

 

(※)源具親:生没年未詳。弘長2年(1263)までは生存。村上源氏。師光の次男、宮内卿の兄。従四位下左近少将。法名は如舜。和歌所寄人。『新古今和歌集』初出、7首入集

 

参考文献: 『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書

      『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮出版

 

新古今の景色(129)院政期(104)女房歌人の発掘(3)宮内卿(2)薄命

後鳥羽院によって建仁元年(1201)に催された『千五百番歌合』で、十代最年少の専門歌人として臨んだ宮内卿が、藤原俊成以下の高名な歌人30人に伍して出詠。勝29、負26、持(引き分け)36の堂々たる成績で初舞台を飾った事は先回に延べた。

 

しかも、宮内卿が初舞台で競った相手は、後鳥羽院が『新古今和歌集』撰集のために建仁元年(1201)7月に設置した和歌所寄人のトップバッターに指名され、続く同年11月には勅撰の宣旨を下して選ばれた6人の撰者の1人の寂蓮であり、 

 

  うすくこき野辺の緑の若草に 跡までみゆる雪のむら消え

 

を詠じて、勝利する大番狂わせを演じたばかりではなく、この歌によって後々まで

「若草の宮内卿」の名を轟かせることになる。

 

ところが、その2年後の建仁3年(1203)に、後鳥羽院から藤原俊成が賜った「九十賀の賀宴」において、宮内卿は代表歌人として賀歌を詠じる機会を与えられたが、下句の出来が今ひとつであったのか識者によって訂正された打撃が大きかったようで、翌年の元久元年(1204)の「春日社歌合」以降は1首も出詠せず、そのことから彼女の死亡が推察された。

 

ところで、鴨長明は『無名抄 66 俊成卿女・宮内卿、両人の詠みやうの変はること

』で宮内卿の歌詠みの姿勢について次のように描いている。

 

今の後鳥羽院御所では俊成卿女(しゅんぜいきょうのむすめ)と聞こえる人と宮内卿と、この二人の女房歌人が、昔の名高い女房歌人にも恥じない歌の上手と称されています。

 

この二人の歌の詠み方は他の人たちとは大きく異なっていているようです。人の申しますには、俊成卿女は、晴の歌を詠もうとする時は、日頃から様々な家集類などを繰り返し々よく見て(中略)、

他方、宮内卿の方は初めから終いまで草子や巻物などを集めて部屋に持ち込み、切灯台を近くに置いて火をともし、少しずつ少しずつ書き取り、書き取って寝る間を惜しんで夜も昼も怠ることなく歌を案じています。

 

この人は熱心に歌を詠むことに没頭したので一度は病に陥り死にそうになった事もあります。宮内卿の父禅門(入道源師光)は娘の身を案じて「何事も先ずは命があってこそで、死に直面するような病になるまでどうして歌を案じるのか」と諌めたが遂に亡くなったのは無理がたたった結果に他ならない。

 

これらの事から窺えるのは、宮内卿歌人としての活動期間は長く見ても正治2年から元久元年までのわずか5年(十五歳頃から二十歳頃)足らずと見られている。

 

ところで、『増鏡(※1)』では、『千五百番歌合』に抜擢された宮内卿が、歌合の場で、後鳥羽院から「かまへてまろが面(おもて)起こすばかりよき歌つこうまつれよ」と奨励されたとき、過剰な期待のことばに涙ぐみながら耐えている姿を伝えており、この記述から、後世、心敬(※2)などによって苦吟の余り血を吐いて没したと伝えられるような薄命の夭折者というイメージが強まっていく。

 

(※1)増鏡:ますかがみ。歴史物語。17巻または19巻。治承4年(1180)~元弘3年(1333)、後鳥羽天皇降誕から後醍醐天皇隠岐還幸まで、鎌倉時代15代150年余年間の事跡を編年体で記す。作者は二条良基説が有力。

 

(※2)心敬:しんけい。(1406~1475)。室町中期の歌人連歌師紀伊の人。七賢の1人。権大僧都比叡山で修行の後、山城の十往心院に住し、応仁の乱を避けて相模大山の麓に隠棲して没。和歌を正徹に学び、冷え寂びた心境を求めた。歌集『芝草』、連歌論『ささめごと』など。

 

参考文献:『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書

     『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

新古今の景色(128)院政期(103)女房歌人の発掘(2)宮内卿(1)専門歌人

宮内卿後鳥羽院に見いだされたのは、正治2年(1200)頃で、父の村上源氏師光が、六条家に近い歌人として歌合で活躍し、『千載和歌集』に初入集、『新古今和歌集』に3首入集して、歌集『師光集』を著し、師光の父・師頼も、勅撰集『金葉和歌集』に初出、『新古今和歌集』に2首入集している重代の家であったことから、新進女房歌人を発掘していた後鳥羽院の眼鏡に叶い、こうして宮内卿は後鳥羽に専門歌人として仕える女房としてのスタートを切ることになった。このことについて、藤原定家は当時の『明月記』に「師光の娘」として記している。 

 

ここで、父・師光について述べると、師光の祖父は堀川左大臣俊房、父は小野宮大納言師頼であるのに、師光自身は閑職の正五位下右京権太夫という、官位においてまるで絵に描いたような末窄まりで終わっているのは、師光が保元の乱で破れた藤原頼長(※)の猶子であったためとされている。

 

その後師光は、建久6年(1195)以前に出家して生蓮と名乗り、最晩年の70歳頃に後鳥羽院歌壇に呼ばれて「正治初度百首」に出詠、「千五百番歌合」では「祝・恋一」の判者を勤めて、元久元年(1204)頃に没とされる。

 

建仁元年(1201)初めて宮内卿の女房名で『千五百番歌合』に十代最年少歌人として、

藤原俊成以下の高名な歌人30人に伍して出詠。勝29、負26、持(引き分け)36の堂々たる成績でデビューを飾る。

 

(※)藤原頼長:平安後期の貴族。忠実の次子。左大臣。父・忠実の庇護を受けて兄・忠通と対立し、氏の長者となる。鳥羽上皇の信任を失い、崇徳上皇側について勢力挽回を図って保元の乱を起こしたが戦死。悪左符と呼ばれた。日記『台記』を表わす。(1120~1156)

 

参考文献:『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書

新古今の景色(127)院政期(102)女房歌人の発掘(1)重代の上臈女房

さて、後鳥羽院の新進女房歌人の発掘はどのように行われたのであろうか。『源家長日記』によれば、当時の身分の高い上臈女房が男性歌人に混じって歌壇で競うことを遠慮する風潮を考慮して、【品高き女房は、はばかり思はるらむ。されど、重代の人は苦しからず、とて、尋ね出でさせ給ふ】と、つまり、身分の高い女房は、院歌壇に出詠するのを強く遠慮するであろうが、重代の歌人(※1)の女房は召しても差し支えないと判断されて、あちこちに声をかけ、これはと思う女房歌人後鳥羽院が直々に召して才能を見極めて、女院(※2)に仕える3人を新進女房歌人として採用した。当時は女院に仕える女房は位の高い上臈女房が多かった。 

 結果的に3人の新進女房歌人後鳥羽院の期待通り、『新古今和歌集』にすぐれた足跡を残すことになる。

 

(1)七条院越前:

   生没年未詳。建長元年(1249)頃は生存。後鳥羽院の母の七条院と後鳥羽院皇女

嘉福門院に仕えた。越前の父が大中臣公親(なかおおとみのきみちか)という重代の歌人であることが判明して、後鳥羽院が召して歌を詠ませると、「嵐を分くる小牡鹿(さおしか)の声」という歌を詠み、お目通りに叶って採用された。当時の彼女は二十歳前後であったがその後長く歌壇で活躍した。『新古今和歌集』7入集。

 

        『新古今和歌集 巻第一 春歌上』

       和歌所にて春山ノ月といふ心をよめる   越前

24 山ふかみ なほかげ寒し春の月 空かきくもり雪はふりつつ

  【深山なので春の月とはゆうものの、やはりその光は寒々としています。空は曇

   り、時々雪をもよおして】

 

        『新古今和歌集 巻第十二 恋歌二』

       久しき恋といへることを         越前

1140 夏引きの 手引きの糸の年へても 絶へぬ思ひにむすぼほれつつ

   【手引きの糸のように、長年経っても絶えることのないあの人への思慕に

    わたしの心は解けやらず結ぼおれています】

 

(2)八条院高倉

   治承2年(1178)頃出生、没年未詳。法印澄憲の娘、母は未詳。他方で二条天皇中宮高松院(鳥羽天皇皇女・姝子内親王)が若くして出家した後に、愛人法印澄憲との間に産れた娘との節もある。鳥羽天皇皇女・八条院に仕えた。「女房三十六歌仙」。

新古今和歌集』7首入集。

 

         『新古今和歌集 巻第一 春歌上』

       題しらず              八条院高倉

54 ひとりのみ、ながめて散りぬ梅の花 しるばかりなる人はとひこで

  【たったひとりで物思いにふけりながら見つめているうちに、梅の花は散って

  しまいました。この花の情趣を解するほどの人が訪れてほしい願いも空しく】

 

          『新古今和歌集 巻第十二 恋歌二』

                         八条院高倉

1146 つれもなき 人の心は うつせみの むなしき恋に 身をやかへてむ

   【つれないあのお方の心は蝉の抜け殻のようなもの。そういう空しい恋のた

    めに 私はこの身を引き換えにしてしまうのでしようか】

 

(3)七条院大納言

   生没年未詳。藤原実綱歌人の二条院参河内侍の娘。高倉院、後鳥羽天皇母七条

 院に仕えた。『新古今和歌集』3首入集。

 

         『新古今和歌集 巻第四 秋歌上』

      題知らず            七条院大納言

402 言(こと)問はむ 野島が崎の海人ごろも 波と月とにいかがしをるる

   【野島が崎の海人に尋ねましょう。あなたの衣は波と月とによって 

    どのようにしおれるのでしようか。】 

 

         『新古今和歌集 巻第十六 雑歌上』

       題知らず            七条院大納言

1494 思ひあれば 露はたもとにまがふかと 秋のはじめをたれに問はまし

   【秋が訪れたこのごろ、わたしは恋しい思いを抱いているので、いったい

    誰に尋ねたらよいのでしようか】

 

(※1)重代の歌人:親や祖先が勅撰集に入集した歌人

(※2)女院:にょいん、にょういんとも。天皇の母や三后内親王などに対して、朝

廷から与えられた尊称。皇居の門号を付すものを門院ともいう。待遇は院(上

皇)に准ずる。

 

引用文献 『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

     『異端の皇女と女房歌人』 田渕句美子著 角川選書

 

新古今の景色(126)院政期(101)女房歌人の発掘へ

しかし、実際は、『源家長日記』が下記に述べるように女房歌人は枯渇したのではなく

 

【(歌道)は心ある人のむげに思ひ捨てぬ道なれば、さる人も侍らむ。しかれども、何のついでにか言ひ出だし初めむ。高き女房は、ひたすらに慎ましき事にして、言ひ出さず。又、身に恥じて慎む人も多かれば、何のたよりにか聞こゆべき。されば女の歌詠みは、この古人たち亡からむ後は、更に絶えなむずる事を、口惜しき事にたびたび仰せらる】。

 

つまり、後宮が文芸サロンとして競い合って女房歌人が中心的な役割を果たした摂関時代と大きく異なり、和歌所寄人に摂政太政大臣藤原良経、内大臣源通親天台座主慈円、御子左家の藤原俊成・定家親子など、貴人や公卿、そして歌道家の男性が中心的な役割を果たす後鳥羽院歌壇では、身分の高い上臈女房は自分が歌人であることをひた隠しにして自分からは言い出す事はなかった。

また、それほど身分の高くない女房であっても、貴顕の男性歌人が主導する歌壇に自分を押し出すことに怖じ気づいてひた隠す女房も多いので、なんらかのきっかけで女房歌人たちの消息が彼女たちの周辺から耳に入ってくることもなかった。

 

そういう状況であったからこそ、後鳥羽院は、小侍従・讃岐・丹後等の老女房歌人が亡くなった後に、歌壇に女房歌人が絶えてしまう事を危惧され、才能ある女房歌人を発掘するために、あれこれ手を尽くされたと、『源家長日記』は述べている。

 

引用文献 『異端の皇女と女房歌人』 田渕句美子著 角川選書

新古今の景色(125)院政期(100)後鳥羽院「女房歌人の絶滅」を懸念

建久9年(1198)1月11日に19歳で土御門天皇に譲位した後鳥羽院が和歌に注力をと考え始めていた正治2年(1200)の前半は、まだ、宮廷歌壇の片鱗も見られなかったが、正治2年の後半から精力的に和歌の催しを推進する。

 

とはいえ、後鳥羽院歌壇の事実上のスタートとなる、正治2年7月~9月に行われた3度の応制百首『院初度百首』(「正治初度百首」)に出詠した女房歌人は、小侍従、二条院讃岐、宜秋門院丹後の3人のベテランだけであった。

 

しかも、既に出家して宮仕えからも退出していた小侍従は当時80歳で、この直後に没したとされ、この頃60歳頃の二条院讃岐は既に出家して二条院及び宜秋門院任子への出仕から身を退いており、二条院讃岐の従姉妹の宜秋門院丹後はこの翌年の建仁元年(1201)頃出家したがその後も承元2年(1208)までは後鳥羽院歌壇の主要な女房歌人として出詠した。

 

【この頃世に女の歌詠み少なしなど、常に歎かせ給ふ。昔より歌よみと聞こゆる女房、少々侍り。殷富門院大輔も一年失せにけり。又讃岐、三河の内侍、丹後、少将(小侍従の誤植)など申す人々も、今は皆齡たけて、ひとへに後の世の営みして、ここかしこの庵に住み慣れて、歌の事も廃れ果てたれば、時々召されなどするも、念仏の妨げなりとぞ、内々には歎きあると聞き侍る。此の人々のほかは、またさらに聞こえず(中略)。

されば女の歌詠みは、この古人(ふるびと)亡からむ後は、更に絶えなむずる事を口惜しき事にたびたび仰せらる】

 

上記は後鳥羽院の命により和歌所の事務長を務めた源家長の『源家長日記』からの抜粋であるが、この文章からは、歌壇に女房歌人は不可欠と考えていた後鳥羽院の「このまま放置していては女房歌人が絶える」との危機感がひしひしと伝わってくる。

  

引用文献 『異端の皇女と女房歌人』 田渕句美子著 角川選書

新古今の景色(124)院政期(99)女房歌人の変遷

(1)王権と女房

 

律令国家の女房・女官は、天皇に近侍してその補助と装飾をつとめて天皇と不可分の存在であり、そのために高貴性を身に纏っていた。

 

・また、中世の女房・女官も王権と一体化し王権に密着した存在であった。

          

(2)「歌合」における女房歌人

 

   ・平安時代

    「歌合」はもともと平安前期に後宮女房たちが主体的に企画したことから始ま

    り、男女共に参加して絢爛と風雅を競い合う宮廷の雅な行事であった。

     そして、この時の女房は歌合の頭(とう)や講師(こうじ)を務め、晴儀

    (せいぎ)の「歌合」にも大きく関与した。

     また、男女対抗の「男・女房歌合」や、斎院・后宮・女院主催の歌合も盛ん

    に催され、女房は歌合の主要な担い手であった。

 

   ・院政期以降:

    「歌合」は和歌の理論的批評の場と変質し、院・天皇摂関家その他の権門と

    結びついた歌道家が歌壇を掌握したことで、「歌合」や「撰集」は公的文化の

    中軸となり、身分と文化の秩序によって構造化されてゆく。

     それに伴い「歌合」は完全に男達・権力者たちの手中に移り、女房が講師

    (歌を読み上げる役)や、判者になることはなくなったが、それでも女房は

    歌合に欠かせない存在であった。

 

   引用文献 『異端の皇女と女房歌人』 田渕句美子著 角川選書