既に出家していた俊成卿女だが、承久3年(1221)の承久の乱後自分を引き立ててくれた後鳥羽院と順徳院が配流され、さらに、彼女が57歳頃の嘉禄3年(1227)に実妹と夫通具を相次いで失って嵯峨に隠棲していたが、元福元年(1233)5月8日に40歳の娘が難産により急逝、嘉禎2年(1236)3月5日には息子具定を37歳で失い、さらに追い打ちをかけるように延応元年(1239)には隠岐に配流されていた後鳥羽院の崩御、仁治2年(1241)には80歳の叔父の定家の逝去、その翌年の仁治3年(1242)には、佐渡に配流されていた順徳院の崩御と、次々に身内と自分を高く評価してくれた君主を失ったのを機に、嵯峨よりも遙かに都から離れた播磨国越部に下向して隠棲した。
この播磨国の越部庄は、御子左家の主要な荘園の一つで、祖父・俊成が長女・八条院三条、長男・成家、次男・定家に三分割して与えていたものの、八条院三条の死後に娘の俊成卿女が受け継いだものであった。
播磨国越部庄に隠棲した俊成卿女だが、その後も定家の息子の藤原為家が指導する歌壇の「歌合」や「百首歌」には出詠を続けていたが、何よりも俊成卿女にとって幸いだったのは、当時の中央歌壇が後鳥羽院の皇統の後嵯峨院歌壇が華やかに幕を開けていた事であった。
この頃には新古今歌人の殆どが没しているにも拘わらず、歌壇を背負う歌人の多くは後鳥羽院歌壇や新古今歌人の時代に大きな憧れを抱いていたことから、俊成卿女は、
・宝治元年(1247)「院御歌合」や
・宝治2年(1248)「宝治百首」に積極的に詠進し、そして
・建長3年(1251)「影供歌合」に出詠した時の彼女は81歳であった。
その他にも「万代集」(※)を初め、当時に次々に編まれる私撰集に俊成卿女の歌は数多く採歌されていて、中央歌壇から遠く離れて隠遁していながらも、それまでとは変わらずに敬愛される大きな存在であった。
他方で、仏道に専心して阿弥陀四十八願を和歌に詠じ、一品経(いっぽんきょう)を書写山に奉納して、建長4年(1252)頃82歳で没したとされる。
俊成卿女の生涯を概観すると、半世紀以上を歌人として生きて生涯で凡そ750首
の和歌を詠み、初出の「新古今和歌集」には29首入集して女性歌人としては49首の式子内親王に次ぐ第二位、存命女流歌人では第一位である。また、自選家集「俊成卿女集」を著した唯一の女流歌人であった。
(※)「万代集」:万代和歌集(まんだいわかしゅう)。鎌倉中期の私撰集。20巻。藤原家良撰か。宝治2年(1248)初撰本成立。翌年精撰本成立か。万葉時代から当代に至る勅撰集に収められていない歌3826首を集め、四季・神祇・釈教・恋・雑・賀に分類したもの。後続する勅撰集の撰集資料になったり、現存の家集に見られない歌がはいっていたりして、和歌史上の研究的価値が高い。
参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人~式子内親王たちの新古今集』
田渕句美子 角川選書