新古今の景色(146)院政期(121)女房歌人の発掘(20)俊成卿女(15)孤独を抱えた播磨国隠棲後も生涯歌人を貫く

 既に出家していた俊成卿女だが、承久3年(1221)の承久の乱後自分を引き立ててくれた後鳥羽院と順徳院が配流され、さらに、彼女が57歳頃の嘉禄3年(1227)に実妹と夫通具を相次いで失って嵯峨に隠棲していたが、元福元年(1233)5月8日に40歳の娘が難産により急逝、嘉禎2年(1236)3月5日には息子具定を37歳で失い、さらに追い打ちをかけるように延応元年(1239)には隠岐に配流されていた後鳥羽院崩御、仁治2年(1241)には80歳の叔父の定家の逝去、その翌年の仁治3年(1242)には、佐渡に配流されていた順徳院の崩御と、次々に身内と自分を高く評価してくれた君主を失ったのを機に、嵯峨よりも遙かに都から離れた播磨国越部に下向して隠棲した。

 

この播磨国の越部庄は、御子左家の主要な荘園の一つで、祖父・俊成が長女・八条院三条、長男・成家、次男・定家に三分割して与えていたものの、八条院三条の死後に娘の俊成卿女が受け継いだものであった。

 

播磨国越部庄に隠棲した俊成卿女だが、その後も定家の息子の藤原為家が指導する歌壇の「歌合」や「百首歌」には出詠を続けていたが、何よりも俊成卿女にとって幸いだったのは、当時の中央歌壇が後鳥羽院の皇統の後嵯峨院歌壇が華やかに幕を開けていた事であった。

 

この頃には新古今歌人の殆どが没しているにも拘わらず、歌壇を背負う歌人の多くは後鳥羽院歌壇や新古今歌人の時代に大きな憧れを抱いていたことから、俊成卿女は、

   ・宝治元年(1247)「院御歌合」や

   ・宝治2年(1248)「宝治百首」に積極的に詠進し、そして

   ・建長3年(1251)「影供歌合」に出詠した時の彼女は81歳であった。

 

その他にも「万代集」(※)を初め、当時に次々に編まれる私撰集に俊成卿女の歌は数多く採歌されていて、中央歌壇から遠く離れて隠遁していながらも、それまでとは変わらずに敬愛される大きな存在であった。

 

他方で、仏道に専心して阿弥陀四十八願を和歌に詠じ、一品経(いっぽんきょう)を書写山に奉納して、建長4年(1252)頃82歳で没したとされる。

 

俊成卿女の生涯を概観すると、半世紀以上を歌人として生きて生涯で凡そ750首

の和歌を詠み、初出の「新古今和歌集」には29首入集して女性歌人としては49首の式子内親王に次ぐ第二位、存命女流歌人では第一位である。また、自選家集「俊成卿女集」を著した唯一の女流歌人であった。 

 

(※)「万代集」:万代和歌集(まんだいわかしゅう)。鎌倉中期の私撰集。20巻。藤原家良撰か。宝治2年(1248)初撰本成立。翌年精撰本成立か。万葉時代から当代に至る勅撰集に収められていない歌3826首を集め、四季・神祇・釈教・恋・雑・賀に分類したもの。後続する勅撰集の撰集資料になったり、現存の家集に見られない歌がはいっていたりして、和歌史上の研究的価値が高い。

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

           田渕句美子 角川選書

新古今の景色(145)院政期(120)女房歌人の発掘(19)俊成卿女(14)「越部禅尼消息」に見る定家への痛烈批判

【新勅撰はかくれごと候わず、中納言入道殿ならぬ人のして候はば、取りてみたくだにさぶらわざりし物にて候。さばかりめでたく候ふ御所たちの一人も入らせおはしまさず、その事となき院ばかり御製として候ふ事、、目もくれたる心地こそし候ひしか。歌よく候ふらめど御爪点合われたる、出さんと思召しけるとて、入道殿の選り出させ給ふ、七十首とかやきこえし由、かたはらいたやとうち覚え候ひき】

 

 何とも歯に衣を着せぬ率直な言い回しであろうか。これは、出家後に播磨の国越部庄に隠棲した俊成卿女が、「越部禅尼消息」として定家の息子の為家宛に書かれた、後堀河天皇の勅命により『新勅撰和歌集(※1)』を撰進した藤原定家に関する文章である。

 

曰わく、

○『新勅撰集』は定家卿(新中納言入道)でない人が撰したのであれば手にも取りたく

     ない。

○あれほど素晴らしい歌を読まれた上皇様たち(後鳥羽院・土御門院・順徳院)のだれ

 一人も入集されず、

○それほど大した歌を詠んでもいない院たちが御製として載せられているのは目も眩む

 心地がする。

○「集(※3)」にある歌は良いのでしようが、入道殿(藤原道家(※2))が削除す

 べきとして爪印をつけた歌を定家卿が慮って削除した歌が七十首に及んだという噂を

 知ると何と見苦しいことかと覚える。

 

(※1)新勅撰和歌集後堀河天皇の勅命により藤原定家が撰進。20巻。文暦2年

    (1235)成る。武家の歌が多く宇治川集とあだ名された。

 

(※2)藤原道家:九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。太政大

    臣・九条良経の次男。官位 従一位・准三宮、摂政、関白、左大臣九条家

    代当主。

 

(※3)集:新勅撰和歌集草稿本

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

          田渕句美子 角川選書

新古今の景色(144)院政期(119)女房歌人の発掘(18)俊成卿女(13)姪に対する定家の警戒心(2)

「皇太后太夫俊成卿女」あるいは「俊成卿女」という女房名は、宮内卿・越前・大輔といった一般的な女房名と異なり、御子左家の、さらには、藤原俊成の後継者を示す家名に基づくもので、俊成卿女にとっては彼女の存在そのものを意味し、御子左家のあるいは祖父藤原俊成の名を背負って後鳥羽院歌壇及びその後の順徳天皇歌壇で活発に出詠してきた。

 

ところで承久の乱により後鳥羽院及び順徳院が配流された後の歌合をみると、寛喜4年(1232)3月に催された「石清水若宮歌合」では「俊成卿女」であったが、同年3月の「日吉社撰歌合」では一変して「侍従源朝臣具定母」となり、貞永元年(1232)成立の「洞院摂政家百首」及び同年8月十五夜の「名所月歌合」では「三位侍従母」と変化している。

 

これらの女房名は俊成卿女自身の意志によるものとは理解し難く、当時の歌壇の中心的指導者であった定家の意図によるものと思われる。

 

そして極めつきは、定家が撰集し今日も親しまれている「百人一首」には、女房歌人としてそれほど評価が高かったとは言い難い右近・祐子内親王紀伊・皇嘉門院別当を採りいれているが、後鳥羽院歌壇でまばゆい光彩を放った宮内卿と俊成卿女は除かれていた。

 

そこには、御子左家及び父俊成の後継者は、自分をおいてはあり得ないという定家の強い自意識と、自らは後鳥羽院にそれほど評価されていなかった裏返しとして、後鳥羽院に重用された宮内卿と俊成卿女への嫉妬と反発が読み取れる。

 

しかるに仁治2年(1241)の定家没後から再び「俊成卿女」の女房名が戻っている。

 

これは、後鳥羽院皇統を継ぐ後嵯峨院歌壇が、後鳥羽院歌壇を憧憬し、継承しようとする流れから、後鳥羽院が高く評価し重用した女房歌人を当時の「俊成卿女」名に戻すことを、良しとする流れになったと思われる。

 

その顕著な現れとして後嵯峨院歌壇における歌合「百首歌」や為家の催した撰歌合の全てで「俊成卿女」の女房名が復活している。

 

また、為家が後嵯峨院の命により建長3年(1251)に撰集した『続後撰和歌集』でも、「皇太后太夫俊成卿女」の女房名を復活させている。

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                    田渕句美子 角川選書

 

 

 

新古今の景色(143)院政期(118)女房歌人の発掘(17)俊成卿女(12)姪に対する定家の警戒心(1)

 

健保元年(1213)年に43歳で出家した俊成卿女は暫くして洛中嵯峨に隠棲するが、それは、夫・通具と彼女の妹が相次いで他界した後の嘉禄3年(1227)頃と思われ、当時の定家の『明月記』には、その頃の俊成卿女について「嵯峨禅尼」あるいは「中院尼上」と記している。

 

承久の乱により後鳥羽院、順徳院が相次いで配流された後の中央歌壇では、定家が指導的な役割を果たしていたが、嵯峨に隠棲した俊成卿女はそれまでとは変わらず作品を詠進していた。

 

また、御子左家の後継者として定家の息子の為家が催した寛喜元年(1229)の『為家家百首』や、寛喜2年(1230)の『洞院摂政家百首』などにおいても、俊成卿女は円熟した女流歌人としての存在を発揮していた。

 

            新勅撰集 恋四

                     題しらず  侍従具定母

 

 914 なれなれて 秋にあふぎをおく露の 色もうらめし 寝屋の月影 

     【あの人と逢瀬を重ねて馴れ親しみ、夏が過ぎて手馴らした扇を

      うち置く秋となった時、そのように私も飽きられて捨てられ、

      秋になって置く露の色も恨めしく涙を落としている。その涙の

      露には、私一人の閨に差し込む月の光が映じている】

 

この歌は、もとは『為家家百首』」に出詠した1首だが、『洞院摂政家百首』にも含められ、自撰家集『俊成卿女集』にも「衛門督殿(※1)への百首」として自ら採り入れる程の自信作でもあったようだ。

 

ところで、この歌を『新勅撰集』に採り入れたのは定家であるが、俊成卿女は定家の『新勅撰集』撰集にあわせて撰集資料の意味で『俊成卿女集』を提供したにも拘わらず、その中から定家が採り入れたのはわずか8首に過ぎず、『新古今和歌集』では俊成卿女より遙かに入集歌の少なかった殷富門院大輔は15首、二条院讃岐は13首、八条院高倉は13首入集しており、その上『新勅撰集』では作者名としての「俊成卿女」という名前は一切使用されなかった。

 

(※1)衛門督殿:藤原為家を指す。

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

          田渕句美子 角川選書

新古今の景色(142)院政期(117)女房歌人の発掘(16)俊成卿女(11)出家を巡る若き天皇との贈答歌

 

         同比、俊成卿女、出家すとて申しける

① 296 君が代の 春は千年と祈りおきて そむく道にも猶頼むかな

      (順徳天皇の長久を祈り)

 

② 297 忘るなよ 言の葉におく色もあらば 苔の袖にも露の哀を

      (出家後も私をお忘れにならないように、私はこれからも歌道に

       精進しますので)

 

③ 298 捨てはつる この世ながらも故郷の しのぶの草にかかる露かな

      (出家しても我が子を思うと涙にくれます)

 

           返し

② 299 祈りおく 言の葉よりぞ残りける いかなる春の露のかたみも

      (これからも絆が切れることはない)

 

① 300 思ひいでん 昔をとはばこたへなん そむく道にも有明の月

      (出家しても昔を思い出して 私に歌を寄越せば答えよう)

 

③ 301 この世をば さてもいかにと故郷の しのぶにたへぬ軒の白露

      (それにしても、何故出家をするのか)

 

上に掲げたのは、順徳天皇の自選集「紫禁和歌集」に収められた、俊成卿女の出家を巡って17歳の若き天皇と俊成卿女が交わした贈答歌です。○数字は対応順。

 

後鳥羽院鍾愛の第三皇子の順徳天皇は、『新古今和歌集』が完成した承元4年(1210)に14歳で即位し、建保元年(1213)に内裏歌壇を開始しているが、俊成卿女はその年の2月7日に43歳で出家して天王寺に参籠し、この出家によって夫・通具との関係を完全に消滅させたのであった。

                     

   ※中世における夫存命中の妻の出家は婚姻の解消を意味し、出家によって

    世俗女性を縛る制約から放たれて、自由な立場を手にする事であって、

    遁世を求めた出家とは異なる。 

 

若き天皇とベテラン女房とが三首もの贈答歌を交わし、それを天皇自らの自選歌集に載せるという例を見ない親密さは、おそらく後鳥羽院の要望で俊成卿女が東宮時代からの順徳天皇の教育係の一人を勤めていたからと思われる。

 

そして順徳天皇歌壇は、承久3年(1221)まで内裏歌壇活動を活発に展開され、若い天皇とその近臣たち、そして、ベテランの新古今歌人、中でも藤原定家、家隆が指導的な役割を果たして、「内裏名所百首」が代表的な催しとして挙げられている。

 

他方で、俊成卿女はこの出家後、順徳天皇の側近から離れるが、歌人としては変わらずに積極的に出詠していた。

 

もし、承久3年(1221)の父・後鳥羽院が起こした承久の乱連座して順徳天皇佐渡に配流されることがなかったなら、譲位後に順徳院として勅撰和歌集を編纂させていたのではないだろうか。

 

参考・引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                    田渕句美子 角川選書

 

新古今の景色(141)院政期(116)女房歌人の発掘(15)俊成卿女(10)本歌取りの名手

新古今和歌集 恋歌四』に採られた俊成卿女の歌は、前回述べた巻軸に置かれた二首だけではなかった。

 

新古今和歌集 恋歌四』に採られた三首目の次の歌は、建永元年(1206)7月に後鳥羽院が和歌所で催した当座歌合の出詠歌で、その後に後鳥羽院が自ら『新古今和歌集』に採りいれたばかりか、承久の乱後に流された隠岐の島で嘉禎2年(1236)後鳥羽院57歳の時に自ら精選して、『新古今和歌集』から三百数十首を除去して約千六百首を残した『隠岐新古今和歌集』にも入集している。

 

          新古今和歌集 巻第十四 恋歌四

                   皇太后太夫俊成卿女

1326 露払うねざめは秋の昔にて 見はてぬ夢に 残る面影

     【哀しみのあまりあふれる涙の露を払ってねざめする私は、秋にあって

      もう飽きられてしまって、愛し合ったのは昔のことになり、今は見果てぬ

      夢に残る恋しい面影は】

 

ところでこの歌は、下記の歌から本歌取りされている。

 

                                     後撰和歌集(※) 恋三 よみ人知らず

770 夢路にも宿かす人のあらませば 寝ざめに露は払らはざらまし

 

 (※)後撰和歌集:天暦5年(951)大中臣能宣清原元輔、源順(したごう)、

              紀時文、坂上望城(もちき)ら、梨壺の5人が撰進した勅撰和歌集

 

また、次の歌は、俊成卿女が後鳥羽院出仕前の建仁元年(1201)夏に催された『千五百番歌合』の出詠歌から『新古今和歌集』に採りいれられたもので、       

 

          新古今和歌集 巻第五 秋歌下

       千五百番歌合に     皇太后太夫俊成卿女

515 訪ふ人も あらし吹きそふ秋は来て 木の葉に埋づむ 宿の道芝」

    【もはやあの人は訪れてこないでしょう。ただでさえさびしい上にあらしの

     吹く秋がやってきて、あの人が踏み分けてきた私の家の道芝は、木の葉に

     埋もれてしまいました】

 

そして、この歌も

 

              拾遺集  秋

205 とふ人も 今はあらしの山風に 人待つ虫の 声ぞ悲しき

 

と、『源氏物語 箒木』の夕顔の歌

 

うちはらう 袖も露けき常夏に あらし(※1)ふきそふ 秋も来にけり(※2)

 

                    (※1)あらし:頭中将の妻から受けた仕打ち

                    (※2)秋も来にけり:頭中将に飽きられた自分

 

の二首を本歌として詠んでおり、俊成卿女は本歌取りの名手と称された。

 

ところで、和泉式部赤染衛門・小侍従・殷富門院大輔などが活躍した相聞歌・贈答歌などが主であった女房歌人の時代と異なり、専門歌人としての立場を要求されていた後鳥羽院歌壇では、「歌合」「歌会」の席で題詠歌を競うことが求められたこともあり、歌人達は『古今集』などの王朝和歌集だけではなく『伊勢物語』『源氏物語』などの物語からも「本歌取り」を作詠しており、その中でも俊成卿女は「本歌取り」を得意としていたようだ。

 

このことは、俊成卿女が、建春門院に出仕した健御前を初めとする俊成卿や定家の娘達のように、宮廷女房として育てられる事も無く、むしろ、祖父母(周囲は歌人ばかり)や叔父の定家達から、源氏物語などをはじめとした古典文学や古典和歌等を学び、かつ、文治4年(1188)に藤原俊成が撰進して完成した「千載和歌集」の編集を手伝った事なども本歌取りの素養を養ったと云えるのではないか。

 

参考・引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                                                           田渕句美子 角川選書

                             『新潮日本古典集成 新古今和歌集 下』

                                                                          久保田淳校注 新潮出版

         『日本詩人選10 後鳥羽院』 丸谷才一 筑摩書房

 

新古今の景色(140)院政期(115)女房歌人の発掘(14)俊成卿女(9)「新古今和歌集 恋歌二・四」の巻頭・巻軸を飾る

定家が明月記に「歌芸によって院よりこれを召すことあり」と記した、和歌をもって歌壇で活躍することを責務とする専門歌人の登用は、男女を通じて、後鳥羽院歌壇で登用された宮内卿と俊成卿女が初めてであった。

 

それでは「歌芸によって」後鳥羽院に召された俊成卿の活躍をざっくりと見てみたい。

 

先ずは、建仁2年(1202)7月13日に後鳥羽院に初出仕して間もない同年9月に、後鳥羽院が水無瀬離宮で催した『水無瀬(※1)恋十五首歌合』で、判者藤原俊成のもとで、当代を代表する歌人十人による恋歌十五題、計七十五番歌合を競って、俊成卿女は5位の成績を収め、後にその中から下記の三首が『新古今和歌集』の「恋歌二の巻頭」及び「恋歌四の巻軸(※2)」を飾った。   

 

        「新古今和歌集」 巻第十二 恋歌二 巻頭

       五十首歌(ごじっしゅのうた)たてまつりしに、寄レ雲ニ恋

                        皇太后太夫俊成卿女

1081 下燃えに 思ひ消えなむ煙だに 跡なき雲のはてぞ悲しき

     【心の中であの人を思って私は死んでしまうでしょう。そのような恋の

     何と悲しいこと】

 

        「新古今和歌集」 巻第十四 恋歌四 巻軸

                        皇太后太夫俊成卿女

1334 ふりにけり しぐれは袖に秋かけて いひしばかりを 待つとせしまに

     【しぐれが袖に降りかかり、私も老けてしまいました。秋になったら逢おう

                   とあの人が言ったのを待っているうちに、そして、わたしもしぐれのよう

                   に涙をこぼしています】

 

1335 通ひこし 宿の道芝かれがれに あとなき霜の 結ぼほれつつ

     【あの人が通ってきた庭の道芝も枯れ枯れとなり、その訪れも離(か)れ

                  離(が)れとなって、今は人の通った跡もなく、霜が白く結ぼほれていま

                 す。それをじっと見つめている私の心も悲しみに結ぼほれて】

 

(※1)水無瀬:摂津国あるいは山城国の歌枕。現在の大阪府三島郡を流れる水無瀬川

             一帯。後鳥羽院離宮があった。

(※2)巻軸:巻物の終りの軸に近い所。一巻の末尾。

 

参考・引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                                                        田渕句美子 角川選書

                             「新潮日本古典集成 新古今和歌集 下」

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