新古今の景色(148)院政期(123)乱世の歌人・藤原定家(2)父・藤原俊成、不遇時代の情熱的な恋

「国宝 藤原俊成筆「広田社歌合」巻首」「墨 1985年7月号」(芸術新聞社刊)より

 

 藤原 俊成(1114~1204)は平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言藤原俊忠の子。

 

10歳で父と死別し、鳥羽院近臣であった義兄の勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗って国司を歴任するも位階は停滞。

 

歌人としては、岳父である藤原為忠の「為忠家百首」への2度の出詠など、天承・長承期(1131~1135)より出詠を本格的に始めて、保延4年(1138)に藤原基俊に師事。

 

そして、保延6・7年(1140・1141)頃は自らの不遇な境遇への悲嘆や、出家への迷いなどを「述懐百首」に詠い上げていたが、その後、崇徳天皇の歌壇の一員となって「久安百首」を詠進する14名の歌人に加えられて活動範囲を広げる一方で、久安元年(1145)に美福門院に仕える加賀とと再婚し、それ以降は美福門院の御給で昇叙を果す

 

 ところで、当時の藤原俊成の身辺状況について『尊卑分脈』(※1)によれば、藤原定長(後の寂蓮)が久安年間(1145~1150)の末頃、藤原俊成の養子になっている。俊成には既に嫡男の成家がいたが、彼に歌道の御子左家(※2)を継がせる才能は無いと見切りをつけ、当時12、3才ながら歌才の萌芽を見せ始めた甥の定長を後継者とすべく養子にしたのである。時に俊成は37、8才であった。

 

 興味深いのは、その頃は、藤原俊成と美福門院女房の加賀が共に再婚への障害が横たわっていたこともあって熱烈な恋のさなかにあった事で、それゆえに切なさも半端ではなかった事が『新古今和歌集 巻第十三 恋歌三』に収められた二人の贈答歌から窺える。

 

           女につかはしける  皇太后宮の大夫俊成

1232 よしさらば のちの世とだに たのめおけ つらさにたへぬ 

     身ともこそなれ

【わかりましたよ。それではせめて後の世では一緒になることだけでも、わたしに

期待を抱かせてください。わたしはあなたのつれなさに堪えられずに死んでしま

う身となるかもしれませんから。】

 

           返し  藤原定家朝臣

1233 たのめおかむ たださばかりを契りにて うき世の中の 夢になしてよ

【お約束しておきましよう、あなたのご期待に添いますと。ただそれだけをわたし

との御縁として、これまでのことは、この憂き世でみたはかない夢とお考えにな

ってください】

 

 何とか障害を乗り越えて俊成と美福門院加賀が再婚した結果、願ってもない天才歌人の定家が生まれたのは俊成が49歳の時であったが、このことは当時24歳だった定長の将来を大きく変えることになる。

 

(※1)『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』:源・平・藤原・橘など日本の主要な諸氏

系図。洞院公定著。巻数は不定。諸系図のうちで最も信頼すべきものとされる。

 

(※2)御子左家(みこひだりけ):藤原俊成・定家以降、中世において勅撰集撰者を代々拝命して中世歌道家の頂点に立った家。御子左とは醍醐天皇皇子左大臣源兼明を指し、その邸は御子左家と呼ばれたが、その邸宅を伝領した俊成・俊海の曾祖父の藤原長家道長六男)を祖とする家系を御子左家と称している。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

      『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社 

 

 

新古今の景色(147)院政期(122)乱世の歌人・藤原定家(1)足を運んで良かった「冷泉家~王朝の和歌守展」

2009年12月4日、私は上野の東京都美術館で開催されている「冷泉家~王朝の和歌守展」に足を運んだ。

 

https://jmapps.ne.jp/tobikan/pict_viewer.html?data_id=568&shiryo_data_id=2178&data_idx=4&referer_id=0&lang=ja

 

https://jmapps.ne.jp/tobikan/pict_viewer.html?data_id=570&shiryo_data_id=2179&data_idx=5&referer_id=0&lang=ja

 

上記は東京都美術館のポスターアーカイブから

 

思ったよりも広い展示会場で、初めから一つ一つの展示品にじっくり目をこらして鑑賞したので膝が痛くなり、目も疲れたが、十数巻に上る藤原定家の「明月記」の現物、直筆の数々にワーッと頭に血が昇り、この感覚は写真やデジタル画像からでは得られないものだった。

 

そして、「良くぞここまで千年近くに亘ってこれらの所蔵品を整理し保存したものだ」と、冷泉家に感謝と敬愛の念を抱いた。

 

また、鴨長明伊勢大輔清少納言を始めとする「私歌集」の数々を直接眼にする事が出来たのも嬉しかった。

 

正直に白状すると、私は、これまで読んできた堀田善衛著「定家明月記私抄」新潮社、五味文彦著「藤原定家の時代」岩波新書を通して、藤原定家の「癇癪持」「狷介」など扱いにくいところばかり目が向いて余り好きになれなかったが、今回の展示を通して、藤原定家の優れた歌人の面だけでなく、王朝文化の基盤固めと「和歌守としての家」の確立と後世への継続に対する情熱、そしてそれへの並々ならぬエネルギーと時間の投入によって築き上げられた、目の前の見事な収蔵品に感謝の気持を抱いてししまった。

 

 

藤原定家「明月記」(冷泉家の至宝展カタログより)

新古今の景色(146)院政期(121)女房歌人の発掘(20)俊成卿女(15)孤独を抱えた播磨国隠棲後も生涯歌人を貫く

 既に出家していた俊成卿女だが、承久3年(1221)の承久の乱後自分を引き立ててくれた後鳥羽院と順徳院が配流され、さらに、彼女が57歳頃の嘉禄3年(1227)に実妹と夫通具を相次いで失って嵯峨に隠棲していたが、元福元年(1233)5月8日に40歳の娘が難産により急逝、嘉禎2年(1236)3月5日には息子具定を37歳で失い、さらに追い打ちをかけるように延応元年(1239)には隠岐に配流されていた後鳥羽院崩御、仁治2年(1241)には80歳の叔父の定家の逝去、その翌年の仁治3年(1242)には、佐渡に配流されていた順徳院の崩御と、次々に身内と自分を高く評価してくれた君主を失ったのを機に、嵯峨よりも遙かに都から離れた播磨国越部に下向して隠棲した。

 

この播磨国の越部庄は、御子左家の主要な荘園の一つで、祖父・俊成が長女・八条院三条、長男・成家、次男・定家に三分割して与えていたものの、八条院三条の死後に娘の俊成卿女が受け継いだものであった。

 

播磨国越部庄に隠棲した俊成卿女だが、その後も定家の息子の藤原為家が指導する歌壇の「歌合」や「百首歌」には出詠を続けていたが、何よりも俊成卿女にとって幸いだったのは、当時の中央歌壇が後鳥羽院の皇統の後嵯峨院歌壇が華やかに幕を開けていた事であった。

 

この頃には新古今歌人の殆どが没しているにも拘わらず、歌壇を背負う歌人の多くは後鳥羽院歌壇や新古今歌人の時代に大きな憧れを抱いていたことから、俊成卿女は、

   ・宝治元年(1247)「院御歌合」や

   ・宝治2年(1248)「宝治百首」に積極的に詠進し、そして

   ・建長3年(1251)「影供歌合」に出詠した時の彼女は81歳であった。

 

その他にも「万代集」(※)を初め、当時に次々に編まれる私撰集に俊成卿女の歌は数多く採歌されていて、中央歌壇から遠く離れて隠遁していながらも、それまでとは変わらずに敬愛される大きな存在であった。

 

他方で、仏道に専心して阿弥陀四十八願を和歌に詠じ、一品経(いっぽんきょう)を書写山に奉納して、建長4年(1252)頃82歳で没したとされる。

 

俊成卿女の生涯を概観すると、半世紀以上を歌人として生きて生涯で凡そ750首

の和歌を詠み、初出の「新古今和歌集」には29首入集して女性歌人としては49首の式子内親王に次ぐ第二位、存命女流歌人では第一位である。また、自選家集「俊成卿女集」を著した唯一の女流歌人であった。 

 

(※)「万代集」:万代和歌集(まんだいわかしゅう)。鎌倉中期の私撰集。20巻。藤原家良撰か。宝治2年(1248)初撰本成立。翌年精撰本成立か。万葉時代から当代に至る勅撰集に収められていない歌3826首を集め、四季・神祇・釈教・恋・雑・賀に分類したもの。後続する勅撰集の撰集資料になったり、現存の家集に見られない歌がはいっていたりして、和歌史上の研究的価値が高い。

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

           田渕句美子 角川選書

新古今の景色(145)院政期(120)女房歌人の発掘(19)俊成卿女(14)「越部禅尼消息」に見る定家への痛烈批判

【新勅撰はかくれごと候わず、中納言入道殿ならぬ人のして候はば、取りてみたくだにさぶらわざりし物にて候。さばかりめでたく候ふ御所たちの一人も入らせおはしまさず、その事となき院ばかり御製として候ふ事、、目もくれたる心地こそし候ひしか。歌よく候ふらめど御爪点合われたる、出さんと思召しけるとて、入道殿の選り出させ給ふ、七十首とかやきこえし由、かたはらいたやとうち覚え候ひき】

 

 何とも歯に衣を着せぬ率直な言い回しであろうか。これは、出家後に播磨の国越部庄に隠棲した俊成卿女が、「越部禅尼消息」として定家の息子の為家宛に書かれた、後堀河天皇の勅命により『新勅撰和歌集(※1)』を撰進した藤原定家に関する文章である。

 

曰わく、

○『新勅撰集』は定家卿(新中納言入道)でない人が撰したのであれば手にも取りたく

     ない。

○あれほど素晴らしい歌を読まれた上皇様たち(後鳥羽院・土御門院・順徳院)のだれ

 一人も入集されず、

○それほど大した歌を詠んでもいない院たちが御製として載せられているのは目も眩む

 心地がする。

○「集(※3)」にある歌は良いのでしようが、入道殿(藤原道家(※2))が削除す

 べきとして爪印をつけた歌を定家卿が慮って削除した歌が七十首に及んだという噂を

 知ると何と見苦しいことかと覚える。

 

(※1)新勅撰和歌集後堀河天皇の勅命により藤原定家が撰進。20巻。文暦2年

    (1235)成る。武家の歌が多く宇治川集とあだ名された。

 

(※2)藤原道家:九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。太政大

    臣・九条良経の次男。官位 従一位・准三宮、摂政、関白、左大臣九条家

    代当主。

 

(※3)集:新勅撰和歌集草稿本

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

          田渕句美子 角川選書

新古今の景色(144)院政期(119)女房歌人の発掘(18)俊成卿女(13)姪に対する定家の警戒心(2)

「皇太后太夫俊成卿女」あるいは「俊成卿女」という女房名は、宮内卿・越前・大輔といった一般的な女房名と異なり、御子左家の、さらには、藤原俊成の後継者を示す家名に基づくもので、俊成卿女にとっては彼女の存在そのものを意味し、御子左家のあるいは祖父藤原俊成の名を背負って後鳥羽院歌壇及びその後の順徳天皇歌壇で活発に出詠してきた。

 

ところで承久の乱により後鳥羽院及び順徳院が配流された後の歌合をみると、寛喜4年(1232)3月に催された「石清水若宮歌合」では「俊成卿女」であったが、同年3月の「日吉社撰歌合」では一変して「侍従源朝臣具定母」となり、貞永元年(1232)成立の「洞院摂政家百首」及び同年8月十五夜の「名所月歌合」では「三位侍従母」と変化している。

 

これらの女房名は俊成卿女自身の意志によるものとは理解し難く、当時の歌壇の中心的指導者であった定家の意図によるものと思われる。

 

そして極めつきは、定家が撰集し今日も親しまれている「百人一首」には、女房歌人としてそれほど評価が高かったとは言い難い右近・祐子内親王紀伊・皇嘉門院別当を採りいれているが、後鳥羽院歌壇でまばゆい光彩を放った宮内卿と俊成卿女は除かれていた。

 

そこには、御子左家及び父俊成の後継者は、自分をおいてはあり得ないという定家の強い自意識と、自らは後鳥羽院にそれほど評価されていなかった裏返しとして、後鳥羽院に重用された宮内卿と俊成卿女への嫉妬と反発が読み取れる。

 

しかるに仁治2年(1241)の定家没後から再び「俊成卿女」の女房名が戻っている。

 

これは、後鳥羽院皇統を継ぐ後嵯峨院歌壇が、後鳥羽院歌壇を憧憬し、継承しようとする流れから、後鳥羽院が高く評価し重用した女房歌人を当時の「俊成卿女」名に戻すことを、良しとする流れになったと思われる。

 

その顕著な現れとして後嵯峨院歌壇における歌合「百首歌」や為家の催した撰歌合の全てで「俊成卿女」の女房名が復活している。

 

また、為家が後嵯峨院の命により建長3年(1251)に撰集した『続後撰和歌集』でも、「皇太后太夫俊成卿女」の女房名を復活させている。

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                    田渕句美子 角川選書

 

 

 

新古今の景色(143)院政期(118)女房歌人の発掘(17)俊成卿女(12)姪に対する定家の警戒心(1)

 

健保元年(1213)年に43歳で出家した俊成卿女は暫くして洛中嵯峨に隠棲するが、それは、夫・通具と彼女の妹が相次いで他界した後の嘉禄3年(1227)頃と思われ、当時の定家の『明月記』には、その頃の俊成卿女について「嵯峨禅尼」あるいは「中院尼上」と記している。

 

承久の乱により後鳥羽院、順徳院が相次いで配流された後の中央歌壇では、定家が指導的な役割を果たしていたが、嵯峨に隠棲した俊成卿女はそれまでとは変わらず作品を詠進していた。

 

また、御子左家の後継者として定家の息子の為家が催した寛喜元年(1229)の『為家家百首』や、寛喜2年(1230)の『洞院摂政家百首』などにおいても、俊成卿女は円熟した女流歌人としての存在を発揮していた。

 

            新勅撰集 恋四

                     題しらず  侍従具定母

 

 914 なれなれて 秋にあふぎをおく露の 色もうらめし 寝屋の月影 

     【あの人と逢瀬を重ねて馴れ親しみ、夏が過ぎて手馴らした扇を

      うち置く秋となった時、そのように私も飽きられて捨てられ、

      秋になって置く露の色も恨めしく涙を落としている。その涙の

      露には、私一人の閨に差し込む月の光が映じている】

 

この歌は、もとは『為家家百首』」に出詠した1首だが、『洞院摂政家百首』にも含められ、自撰家集『俊成卿女集』にも「衛門督殿(※1)への百首」として自ら採り入れる程の自信作でもあったようだ。

 

ところで、この歌を『新勅撰集』に採り入れたのは定家であるが、俊成卿女は定家の『新勅撰集』撰集にあわせて撰集資料の意味で『俊成卿女集』を提供したにも拘わらず、その中から定家が採り入れたのはわずか8首に過ぎず、『新古今和歌集』では俊成卿女より遙かに入集歌の少なかった殷富門院大輔は15首、二条院讃岐は13首、八条院高倉は13首入集しており、その上『新勅撰集』では作者名としての「俊成卿女」という名前は一切使用されなかった。

 

(※1)衛門督殿:藤原為家を指す。

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

          田渕句美子 角川選書

新古今の景色(142)院政期(117)女房歌人の発掘(16)俊成卿女(11)出家を巡る若き天皇との贈答歌

 

         同比、俊成卿女、出家すとて申しける

① 296 君が代の 春は千年と祈りおきて そむく道にも猶頼むかな

      (順徳天皇の長久を祈り)

 

② 297 忘るなよ 言の葉におく色もあらば 苔の袖にも露の哀を

      (出家後も私をお忘れにならないように、私はこれからも歌道に

       精進しますので)

 

③ 298 捨てはつる この世ながらも故郷の しのぶの草にかかる露かな

      (出家しても我が子を思うと涙にくれます)

 

           返し

② 299 祈りおく 言の葉よりぞ残りける いかなる春の露のかたみも

      (これからも絆が切れることはない)

 

① 300 思ひいでん 昔をとはばこたへなん そむく道にも有明の月

      (出家しても昔を思い出して 私に歌を寄越せば答えよう)

 

③ 301 この世をば さてもいかにと故郷の しのぶにたへぬ軒の白露

      (それにしても、何故出家をするのか)

 

上に掲げたのは、順徳天皇の自選集「紫禁和歌集」に収められた、俊成卿女の出家を巡って17歳の若き天皇と俊成卿女が交わした贈答歌です。○数字は対応順。

 

後鳥羽院鍾愛の第三皇子の順徳天皇は、『新古今和歌集』が完成した承元4年(1210)に14歳で即位し、建保元年(1213)に内裏歌壇を開始しているが、俊成卿女はその年の2月7日に43歳で出家して天王寺に参籠し、この出家によって夫・通具との関係を完全に消滅させたのであった。

                     

   ※中世における夫存命中の妻の出家は婚姻の解消を意味し、出家によって

    世俗女性を縛る制約から放たれて、自由な立場を手にする事であって、

    遁世を求めた出家とは異なる。 

 

若き天皇とベテラン女房とが三首もの贈答歌を交わし、それを天皇自らの自選歌集に載せるという例を見ない親密さは、おそらく後鳥羽院の要望で俊成卿女が東宮時代からの順徳天皇の教育係の一人を勤めていたからと思われる。

 

そして順徳天皇歌壇は、承久3年(1221)まで内裏歌壇活動を活発に展開され、若い天皇とその近臣たち、そして、ベテランの新古今歌人、中でも藤原定家、家隆が指導的な役割を果たして、「内裏名所百首」が代表的な催しとして挙げられている。

 

他方で、俊成卿女はこの出家後、順徳天皇の側近から離れるが、歌人としては変わらずに積極的に出詠していた。

 

もし、承久3年(1221)の父・後鳥羽院が起こした承久の乱連座して順徳天皇佐渡に配流されることがなかったなら、譲位後に順徳院として勅撰和歌集を編纂させていたのではないだろうか。

 

参考・引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                    田渕句美子 角川選書