2022-01-01から1年間の記事一覧
さて、後鳥羽院の新進女房歌人の発掘はどのように行われたのであろうか。『源家長日記』によれば、当時の身分の高い上臈女房が男性歌人に混じって歌壇で競うことを遠慮する風潮を考慮して、【品高き女房は、はばかり思はるらむ。されど、重代の人は苦しから…
しかし、実際は、『源家長日記』が下記に述べるように女房歌人は枯渇したのではなく 【(歌道)は心ある人のむげに思ひ捨てぬ道なれば、さる人も侍らむ。しかれども、何のついでにか言ひ出だし初めむ。高き女房は、ひたすらに慎ましき事にして、言ひ出さず。…
建久9年(1198)1月11日に19歳で土御門天皇に譲位した後鳥羽院が和歌に注力をと考え始めていた正治2年(1200)の前半は、まだ、宮廷歌壇の片鱗も見られなかったが、正治2年の後半から精力的に和歌の催しを推進する。 とはいえ、後鳥羽院歌壇の事実上…
(1)王権と女房 ・律令国家の女房・女官は、天皇に近侍してその補助と装飾をつとめて天皇と不可分の存在であり、そのために高貴性を身に纏っていた。 ・また、中世の女房・女官も王権と一体化し王権に密着した存在であった。 (2)「歌合」における女房歌人…
「この頃、世に女の歌詠み少なしなど、常に歎かせ給ふ。昔より歌よみと聞こゆる女房、少々侍り。殷富門院大輔も一年(ひととせ)失せにき。 又、讃岐、三河の内侍、丹後、少将(小侍従の誤写か)など申す人々も、今は皆齡(よはひ)たけて、ひとへに後の世の…
都うつりの比(ころ)後徳大寺左大臣、太皇大皇宮に参りて、 女房の中にて夜もすがら月を見て物語などして、暁帰りける時、 小侍従送り出でて侍りけるに、ともにありて申しける 藤原経伊 ものかはと君が言ひけむ鳥の音の 今朝しもなどか悲しけるらん 上記は…
家集「小侍従集」によると、小侍従(※)が、治承3年(1178)3月に59歳で突然出家して八幡八幡宮に引き籠った時に、かつての主の太皇大皇宮多子(まさるこ)から何故出家をした事を知らせてくれなかったかと問われて とふ人も波に漂ふ海士小舟(あまこぶ…
ある日、カフェでのんびりと『西行全歌集』のページを捲っていたところ、「山家集 中」に収められた西行と小侍従の次のような贈答歌が目に入ってきた。 院(後白川院)の小侍従、例ならぬ事大事に臥し沈みて 年月経にけりと聞こえて、訪(とぶら)ひにまかり…
さらにさかのぼれば、小侍従が26歳か27歳の頃で、久我雅通(※1)も中将か参議の若かった久安・仁平の時代(1145~53)、二人が人目を忍ぶ熱烈な恋人だった事を偲ばせる恋の唱和4首が『小侍従集』に残されている。 雅通 儚さもあふ名なりけり夏の…
小侍従 泊まりゐて 返らぬけふの心をぞ 羨むものと我はなりぬる 【女院のもとにお泊まりになったまま、仙洞御所にはお帰りにならない 院のお心を、ただ羨ましくのみみております】 後白河院 世の常の栖(すみか)を洞(ほら)の内にして 返らむ人と君をなさ…
前回述べた『平家物語 巻第五 月見』が伝える「待宵の小侍従」の名が決定的になった頃の小侍従は二条院に出仕した40歳前後の出来事と考えられるが、それにしても、二条帝后太宮の御前(おまへ)の『待つ宵と帰る朝(あした)とは、いずれか あはれは まさ…
待つ宵の 更けゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは 『平家物語 巻第五 月見』によれば、この1首によって「待宵の小侍従(※1)」の名は決定的になったと下記のように記されている。 〔そもそもこの女房を「待宵」と召されけることは、あるとき、太宮…
寂連の入滅した日は明確ではないが、彼が出詠した最後の歌合は、後鳥羽院が建仁2年(1202)5月26日に主催した『仙洞影供歌合』とされる。 その一ヶ月後の寂蓮と近しかった藤原定家の6月29日の『明月記』には、 〔廿日、天陰、炎暑之間衆病競起甚…
ところで寂蓮は和歌の名手だけではなく、舞の名手として、さらには能書家としても広く知られている。舞については、29歳の仁安2年(1167)に賀茂臨時祭の舞人を務めたことが平信範の日記『兵範記』に、31歳の仁安4年(1169)と翌年の嘉応元年…
建仁2年(1202)5月26日に後鳥羽院が主催した『仙洞影供歌合』は、寂連最後の歌合とされ、その2ヶ月後の7月に寂連は入滅した。 ところで「影供歌合」とは元永元年(1118)、平安期の歌人・藤原顕季が歌会の場に、歌聖と称された柿本人麿の像を…
更に続けて『三体和歌会』での寂蓮の詠歌を見てゆきたい。 夏 太くおおきに読むべし 夏の夜の有明の空に郭公 月よりおつる夜半の一声 (夏の夜の明けようとする頃の空に、郭公の月の内より出てくるかと思われる 夜半の一声がする) 秋 からびほそく読むべし …
『三体和歌会』は、後鳥羽院の主催で建仁2年(1202)3月20日に仙洞御所で催され、連なった歌人は、後鳥羽院・良経・慈円・定家・家隆・寂連・長明の7人で、雅経と有家も召されたが病気を理由に辞退している。 この『三体和歌会』に関しては、後鳥羽…
月をテーマとした「結題(むすびだい)」十題五十番で競われた『撰歌合』で、寂連の詠歌は「月多秋友」「月前松風」「河月似氷」の3題が撰歌され、慈円、保季、通具に対して勝3の成績であった。 その中から慈円と対して勝ちとなった「月多秋友」の歌を採り…
次に、寂蓮の歌は登場しないが、新古今時代の転換期を象徴するとされる「海辺秋月」の題詠歌から「働く海人」をモチーフにした3人の詠歌を採り上げたい。 先ずは二条院讃岐と番えて勝ちとなり、後に『新古今和歌集』(秋上・四〇一番)に入集した鴨長明の次…
『撰歌合』は建仁元年(1201)8月15日夜に和歌所にて催された後鳥羽院主催の歌合で、歌人は判者の釈阿(俊成)を含めて25人、双方の難陳(※1)が記されているのが興味深く、判詞は簡略であった。 歌題は、「月多秋友」「月前松風」「月下擣衣」「…
後鳥羽院は『新古今和歌集』撰集のために建仁元年(1201)7月27日に二条殿の広御所に和歌所を設置し、寂蓮は和歌所寄人の1人に選ばれた。 ここでは後鳥羽院が和歌所を設置した直後に初めて同所で催した『和歌所影供歌合』を採りあげたい。 この歌合…
寂蓮の次の歌も『新古今和歌集』(巻二・春下、一五四番)に入集しており、判者は釈阿(俊成)。 二百八十一番 左 有家朝臣 わぎもこがくれなゐぞめのいはつつじ いはでちしほの色ぞ見えける 【私のいとしい人の緋色に染めた衣 岩つつじは 何も言わないで 繰…
『千五百番歌合』とは後鳥羽院が主催した正治2年(1200)の『院初度百首』と同年の『院第2度百首』、及び建仁2年(1201)の『院第3度百首』を後に歌合として纏め、それに判詞あるいは判歌を付して史上最大の「歌合」にしたもので、この中から『…
次に『新古今和歌集』(巻第五 秋歌下 469番)にも採られた寂蓮の秋部の「露」を歌材に詠んだ次の歌を採りあげたい。 物思ふ袖より露やならひけむ 秋風吹けばたへぬものとは 【露は物思うわたしの袖の涙から習ったのだろうか。秋風が吹けば堪えかねて 散…
正治から建仁期(1199~1203)は後鳥羽院の主導による仙洞歌壇が形成されていったが、その最初の催しが正治2年(1200)の『院初度百首』で、正治2年7月に後鳥羽院から寂蓮に『正治2年院初度百首』への沙汰があり寂蓮は8月に寂蓮百首歌を提…
『六百番歌合』は、55歳の寂蓮が配流された崇徳院御所跡を初めとする四国讃岐への詠歌行脚を終えて出詠した歌合で、建久4年(1193)に左大将藤原良経が催したものである。 この歌合は、歌人の詠進が同年の正月頃から始まり成立は同年秋から暮れ頃まで…
出家後の寂蓮が後鳥羽院に召されるまでに九条歌壇で出詠した主な歌合は次の通りである。 ①治承3年(1179)『右大臣兼実家歌合』 この間に都の周辺、高野山、出雲大社などへ詠歌行脚 ②建久元年(1190)『左大将良経邸花月百首』 この間に東国地方、…
寂蓮は出家直後から福原遷都の前後の頃までは柿本人麻呂の墓所など都の周辺の和歌に関わる遺跡や歌枕の名所巡り、晩年の建久1年から2年にかけては出雲大社や東下りなど漂泊の旅を通して歌作りに磨きをかけていたが、他方では遁世歌人という自由な立場を得…
『住吉社歌合』は寂蓮が出家する前の嘉応2年(1170)10月9日に、藤原敦頼が和歌の神社として尊ばれていた住吉社の社頭で催したもので、「社頭月」「旅宿時雨」「述懐」の三題を、定長を含む歌人50人が番えて、各歌題25番、計75番を競った歌合…
在俗時代の寂蓮が詠進した主な歌合は、『平経盛朝臣家歌合』、『実国卿家歌合』、『住吉社歌合』、『公通家十首会』、『宰相入道観蓮歌合』、『後徳大寺実定家結題百首』などが挙げられるがその中から『平経盛朝臣家歌合』と『住吉社歌合』を採り上げてみた…