『三体和歌会』は、後鳥羽院の主催で建仁2年(1202)3月20日に仙洞御所で催され、連なった歌人は、後鳥羽院・良経・慈円・定家・家隆・寂連・長明の7人で、雅経と有家も召されたが病気を理由に辞退している。
この『三体和歌会』に関しては、後鳥羽院から召された幾人かの歌人が難題故に諸々の理由で辞退した中で、錚々たる歌人に連なった長明の誇りに満ちた『無名抄』の記述が余りにも有名なのでそれを引用してみた。
【御所に朝夕候ひし頃、常にも似ず珍しき御会ありき。「六首の歌にみな姿を詠みかへてたてまつれ」とて、「春・夏は、太くおおきに、秋・冬は細く乾らび、恋・旅は艶に優しくつかうまつれ。もし、思ふやうに詠みおほせずは、そのよしをありのままに申し上げよ。歌のさま知れるほどを御覧ずべきためなりり」と、おほせられしかば、いみじき大事にて、かたへは辞退す。心にくからぬ人をおば、またもとより召されず。かかればまさしくその座にまいりて連なれる人、殿下・大僧正御房・定家・家隆・寂連・予と、わずかに六人ぞ侍りし。】
この歌会での寂蓮の出詠歌は、まずは、後鳥羽院から賞賛され、『新古今和歌集』(巻一・春上・八七番)にも入集した春の歌から。
春 ふとくおほきによむべし
かづらきやたかまの桜さきにけりたつたのおくにかかる白雲
【葛城連山の高間の山(※)の桜の花が咲いたことよ。龍田山の
奥の方にかかっている白雲と見えるのは、その桜の花に相違ない】
ところでこの寂蓮の歌と長明が出詠した春の歌の主材が「高間の山の桜」でかち合ったいきさつについて、長明は『無名抄』で次のように記している。
【春の歌をあまた詠みて、寂連入道に見せ申し時、この高間の歌を「よし」とて、点合はれたれしかば、書きてたてまつりき、すでに講ぜらるる時に至りてこれを聞けば、かの入道の歌に、同じ高間の花をよまりたりけり。わが歌に似たらば違へむなど思ふ心もなく、ありのままにことわられける、いとありがたき心なりかし。さるは、まことの心ざまなどをば、いたく神妙なる人ともいわれざれしを、わが得つる道なれば心ばへもよくなるなり】
通常は、歌の可否判断を求めた側の歌の主題が、求められた側の歌の主題とかち合った場合、可否判断を求められた側がその旨を伝えて、求めた側に主題を変更させるのだが、それを踏まえて、自分の主題と同じ長明の歌の出詠を推奨した寂蓮の懐の深さに感激している。
さて、寂蓮と同じ「高間の桜」を詠んだ長明の春の歌は下記の通りである。
春 ふとくおほきによむべし
雲さそふ天つ春風かをるなり 高間の山のはなざかりかも
【花の雲を誘って散らせる空吹く春風がかおっている。
高間の山は花盛りなのだろうか】
(※)高間の山:奈良県御所(ごぜ)市の金剛山の別称。桜の名所。
参考文献:『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫
『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版