新古今の景色(115)院政期(90)寂蓮の遁世(28)入滅~定家の慟哭

寂連の入滅した日は明確ではないが、彼が出詠した最後の歌合は、後鳥羽院建仁2年(1202)5月26日に主催した『仙洞影供歌合』とされる。

 

その一ヶ月後の寂蓮と近しかった藤原定家の6月29日の『明月記』には、

 

〔廿日、天陰、炎暑之間衆病競起甚無術、午時許少輔入道来、相乗参入道殿、申時許還、於途中遇大雨入還、即帰了〕

と、炎暑続きの日々で、あちこちで病気が流行っているさなか、寂連が定家邸を訪れ、車に同乗して俊成邸を訪問し、帰路に大雨に遭遇したがその中を帰り着いたと記しているが、その時の寂蓮の健康状態については何も触れていない。

 

しかし、さらにその1ヶ月後の7月20日の『明月記』では、

〔廿日、天晴、午時許参上、左中弁云、少輔入道逝去之由〕

と、定家が正午頃に院御所に参上した時、左中弁から寂連が逝去したことを知らされており、この記述が寂蓮の入滅を7月20日以前とみなす根拠の一つとなっている。

 

そして、次には、寂蓮を突然に失った定家の慟哭が赤裸々に吐露されている。

〔浮世無常雖不可驚、今聞之、哀慟之思難禁、自幼少之昔、久相馴巳及数十廻、凡於和歌道者、傍輩誰人乎、巳以奇異逸物也、今巳帰泉、為道可恨、於身可悲〕

 

【無常のこの世であれば驚くべきではないとはいえ、たった今少輔入道の死を聞かされて嘆き悲しむ思いを留めることができない。幼少の昔より長く馴れ親しんで数十年になる。総じて和歌の道において少輔入道をおいて一体誰が肩を並べようか。

早くから他の人とは異なり類のない優れた歌人であった。その少輔入道は、今、まさしく黄泉の国に向かった。和歌の道のためには恨めしいことである。我が身においても悲しいことである】

あの狷介な定家の率直な悲しみが伝わってくる文章である。

 

寂連は後鳥羽院に望まれて『新古今和歌集』の撰者に選ばれていたが、心ならずもその役割を果たすことなく入滅した。

 

寂蓮の死を悼み悲しんだのは定家だけではなく、後鳥羽院の近臣で和歌所の開闔(書記)を務めた源家長は、急な病で『新古今和歌集』の完成を見ることなく志半ばで散らざるを得なかった寂蓮の無念さを思いやると共に、歌人としての寂蓮に大きな期待を抱いていた後鳥羽院の半端ではない嘆き、そして深い結びつきを重ねてきた和歌所の寄人たちの喪失感を『源家長日記』に次のように記している。

 

〔心もとなく、いかほどかあつめよせつらんなどと思ひし程に、としもかはりてそのとしの秋比寂連入道わづらひて、つひにはかなくなりはべりにき。よのならひながら、をりしもこそあれ、かかる勅をうけ給ふ、此事をとげずしてうせぬる事、いかばかりのこと思ひけん。君も御なげきあさからぬ御気色也。まいて此道をたしなみ心をそめたる人々のなげきあへるけしきもいへばおろかなり。中にも和歌所のより人たちは、身のうへのなげきとのみ、涙も更にふししづみなげきあへり(後略)〕

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版