出家後の寂蓮が後鳥羽院に召されるまでに九条歌壇で出詠した主な歌合は次の通りである。
①治承3年(1179)『右大臣兼実家歌合』
②建久元年(1190)『左大将良経邸花月百首』
この間に東国地方、手越、箱根山などへ詠歌行脚
③建久2年(1191)『左大将良経邸十題百首』
④建久4年(1193)『六百番歌合』
⑤建久5年(1194)『左大将良経家名所題十首歌合』
⑥建久6年(1195)『良経家五十番歌会』
⑨正治2年(1200)『後京極家(良経)当座歌会』
⑩ 〃 『左大臣良経家十題廿番撰歌合』
そして、正治2年7月に、後鳥羽院から『正治2年院初度百首』への沙汰があり、寂蓮は8月に寂蓮百首歌を提出し、それ以降後鳥羽院歌壇に欠かせない歌人となる。
ここでは、その中から①の『右大臣兼実家歌合』と④の『六百番歌合』を採り上げたい。
最初に採り上げる『右大臣家歌合』は、治承3年(1179)10月18日に当時の右大臣九条兼実邸で催されたもので、寂蓮41歳の時であった。
この歌合の出詠歌人は二十名、歌題は十題で三十番、判者は藤原俊成であった。その中で
寂蓮は「霞」・「花」・「雪」の三歌題に出詠して、仲綱、顕昭、大弐入道重家と競い、勝2、持(引分)1の成績であった。
ここでは、「雪」の歌題で後に『新古今和歌集』(巻第六 冬歌 六百六十三番)に入集した「雪のゆふぐれ」の歌を採りあげたい。
17番 左勝 寂蓮
ふりそむる けさだに人のまたれつる みやまの里の雪のゆふぐれ
【雪の降りはじめた今朝でさえも、人の訪れてくるのが心待ちされるのに、この奥深
い里のいっそう人恋しい、雪の降り積もっている寂しい夕暮れよ】
右 大弐入道重家
旅人ははれまなしやとおもふらん たかきのやまの雪のあけぼの
【旅人は雪の晴れ間がないと思っているのであろう。高城の山の雪の降り積もった
夜明け方の空よ】
判詞 俊成
みやまのさとの雪は、今朝だに人の、などいへる心よろしく侍るにや、たかきのや
まの雪は歌のたけありて優に侍るべし、此たかきの山も芳野の山にこそ侍れ、旅人
などのつねにすぐる事はいとなくや侍らむと覚え侍るうへに、雪の夕ぐれ、すこし
さびておもひやられ侍れば、又左のかたへつき侍らむ
【寂蓮の「深山の里の雪は、今朝だに人の」などと詠んでいる趣向はよいのではないか、大弐入道重家の「高城の山の雪」は歌の風格があって上品である。この高城の山も芳野の山と同じである。旅人が通ることは希であると感じられる上に、寂蓮の「雪の夕暮」の句は、いくらか閑寂の趣が感じられるので、また、左の寂蓮の歌を良しとしよう】
ところで、寂蓮の「雪のゆふぐれ」の句は後に藤原定家の『新古今和歌集』(巻六・冬・六百七十一番)入集の「駒とめて袖うちはらふかげもなし さののわたりの雪のゆふぐれ」にインスピレーションを与えた。
参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版