ところで寂蓮は和歌の名手だけではなく、舞の名手として、さらには能書家としても広く知られている。舞については、29歳の仁安2年(1167)に賀茂臨時祭の舞人を務めたことが平信範の日記『兵範記』に、31歳の仁安4年(1169)と翌年の嘉応元年(1170)に石清水八幡宮臨時祭の舞人を務めたことが『宮事縁事抄』に記されている。
さて、能書家としての寂蓮の作品について、ここでは『熊野懐紙』と『一品経和歌懐紙』を採り上げたい。
後鳥羽院は、建久9年(1198)に土御門天皇に譲位して以後、承久3年(1221)隠岐に配流されるまでの24年間に実に27回も熊野御幸を行ない、その途次の王子社などで催された当座歌会の和歌の懐紙が現存している。
そのなかの、62歳の寂蓮が正治2年(1200)12月初旬の熊野御幸に随行した際の当座歌合で詠んだ和歌の熊野懐紙『古渓冬朝 寒夜待春』(国宝 陽明文庫蔵)は歌題二首を詠進したもので次のように書かれている。
詠二首和歌 沙弥寂蓮上
古谿 冬朝
つまぎこるむかしのあともしられけり ゆきよりおろすたにのきたかぜ
【昔 薪にする小枝を採った跡もわかることだ。雪がふり下ろす谿谷より吹き
込んでくる北風よ】
寒夜 待春
旅寝するやまのはさゆるしらくもの はなにこゝろをならしそむらむ
【旅寝をして、山の稜線のあたりが冷え込んで、その白雪が春になって花が咲く
気持ちに慣れ親しませてくれる】
『書と墨画のグラフ誌 墨 1985年7月号』より
次に採り上げる『一品経和歌懐紙』(国宝・京都国立博物館蔵)二首懐紙で、一首は法華経の各品を題として詠み、一首は「述懐」を題として詠んだもので次のように書かれている。
安楽行品 寂蓮
若於夢中 但見妙事
のりのためつとめてのちにみしゆめや ねむりさむべきはじめなりけむ
述懐
たのむぞよあまついはとをわけきても ちりにひかりのかよふあはれは
一首目の「安楽行品」の歌は、法華経の「妙法蓮華経安楽行品第十四」の経文中の「若於夢中 但見妙事」の句を典拠として詠み、その歌意は、仏道修行に励んで後に見た夢は、眠りから覚め、仏道の真理を知るきっかけになるのであろう。
二首目の「述懐」の歌意は、たよりにすることだよ。高天原の岩戸を引き開けても、仏や菩薩が、この世の人々を救済するために、その威徳の光を和らげ、いろいろな姿となって俗塵に満ちたこの世に現れる、何とも趣のあることよ。
『書と墨画のグラフ誌 墨 1985年7月号』より
参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』