34才の藤原定長が承安2年(1172)に出家をして寂蓮と称した後の消息について、後鳥羽院に仕えて和歌所の事務長を務めた源家長は『源家長日記』で次のように記している。 「世の事わりは昔もおぼしめししりけめども、此比ぞみちみちにつけてはいづれも…
寂蓮が生きた時代は、公家(※1)・公卿(2)といえども長子に家督を継がせるのが精々で、それ以外の男子を高官に着任させるほどの権力は既に持ち合わせておらず、それでも家の威光と財力を有する公卿は息子を延暦寺・醍醐寺・興福寺・仁和寺などの官寺(※…
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