寂蓮が生きた時代は、公家(※1)・公卿(2)といえども長子に家督を継がせるのが精々で、それ以外の男子を高官に着任させるほどの権力は既に持ち合わせておらず、それでも家の威光と財力を有する公卿は息子を延暦寺・醍醐寺・興福寺・仁和寺などの官寺(※3)に入寺させて僧綱(僧正・僧都・律師)という出世階段を昇らせた事は先回述べた。
実際に、出家した寂蓮の父・伯父・息子・従兄弟の大半は権門官寺に入寺しており、父・俊海は阿闍梨という密教で伝法灌頂という秘法を伝授された資格を持つ高僧であった。
また、寂蓮の父・俊海の弟達の中には天台座主(延暦寺のトップ)や園城寺権大僧都、仁和寺権大僧都などの高位に着いた得も者が多く、寂蓮について云えば彼の息子には園城寺権律師、俊成の出家した二人の息子はそれぞれ興福寺権大僧都、延暦寺権律師の僧綱に上り詰めているのは、従二位・権中納言だった寂蓮の祖父・俊忠の威光があったということであろう。
ところで、当時の律令制下の権門官寺の僧は、単に仏教教学上の修行を積むだけではなく、朝廷・院・女院・公家が催す仏寺や大寺院の恒例の法会に招聘され、時には公請(くじょう)という朝廷からの要請で、教学の知識を試す論議に参加することが求められており、それらの活動経歴によって朝廷から僧綱(僧の官位)に叙せられる立身出世の階梯があった。
他方では、平安末期から鎌倉初期にかけての院政期には、延暦寺・興福寺・園城寺などの僧徒の強訴(※4)の嵐が吹き荒れ、寺内のあちこちで寡頭頭巾で顔を覆い武装した大衆(※5)と呼ばれる僧兵が我が物顔で都を跋扈するという、僧侶の世界も世俗と異ならない苛烈な世界であった。
(※2公卿(くぎょう):公(太政大臣および左・右大臣)と卿(大・中納言、参議及び三位以上の朝官)との併称。
(※3)官寺(かんじ):律令制下、伽藍造営費を官府が支出し、経営維持に食封(じきふ)が給せられた寺・大寺・国分寺など。
(※4)強訴(ごうそ):徒党を組んで訴えを起こし、其れを強く主張する集団行動。
僧兵の強訴として代用的なものは、平安後期、延暦寺の僧徒が日吉(ひえ)神社の神輿を奉じて入京し、あるいは、興福寺の僧徒が春日神社の神木を奉じて入京し、朝廷に対し要求を貫徹しようとしたことが挙げられる。
(※5)大衆(だいしゅ):多数の僧侶。衆徒。
文学博士久松潜一 文学博士實方清編 弘文堂
『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版