既に出家していた俊成卿女だが、承久3年(1221)の承久の乱後自分を引き立ててくれた後鳥羽院と順徳院が配流され、さらに、彼女が57歳頃の嘉禄3年(1227)に実妹と夫通具を相次いで失って嵯峨に隠棲していたが、元福元年(1233)5月8日に40歳の娘が…
【新勅撰はかくれごと候わず、中納言入道殿ならぬ人のして候はば、取りてみたくだにさぶらわざりし物にて候。さばかりめでたく候ふ御所たちの一人も入らせおはしまさず、その事となき院ばかり御製として候ふ事、、目もくれたる心地こそし候ひしか。歌よく候ふ…
「皇太后宮太夫俊成卿女」あるいは「俊成卿女」という女房名は、宮内卿・越前・大輔といった一般的な女房名と異なり、御子左家の、さらには、藤原俊成の後継者を示す家名に基づくもので、俊成卿女にとっては彼女の存在そのものを意味し、御子左家のあるいは…
健保元年(1213)年に43歳で出家した俊成卿女は暫くして洛中嵯峨に隠棲するが、それは、夫・通具と彼女の妹が相次いで他界した後の嘉禄3年(1227)頃と思われ、当時の定家の『明月記』には、その頃の俊成卿女について「嵯峨禅尼」あるいは「中院尼上」と…
同比、俊成卿女、出家すとて申しける ① 296 君が代の 春は千年と祈りおきて そむく道にも猶頼むかな (順徳天皇の長久を祈り) ② 297 忘るなよ 言の葉におく色もあらば 苔の袖にも露の哀を (出家後も私をお忘れにならないように、私はこれからも歌道…
『新古今和歌集 恋歌四』に採られた俊成卿女の歌は、前回述べた巻軸に置かれた二首だけではなかった。 『新古今和歌集 恋歌四』に採られた三首目の次の歌は、建永元年(1206)7月に後鳥羽院が和歌所で催した当座歌合の出詠歌で、その後に後鳥羽院が自ら『新…
定家が明月記に「歌芸によって院よりこれを召すことあり」と記した、和歌をもって歌壇で活躍することを責務とする専門歌人の登用は、男女を通じて、後鳥羽院歌壇で登用された宮内卿と俊成卿女が初めてであった。 それでは「歌芸によって」後鳥羽院に召された…
建仁2年(1202)7月13日、俊成卿女は後鳥羽院女房として院御所に初出仕をした。 この模様について藤原定家は『明月記』に 【「歌芸によって、院よりこれを召すとあり」と記し、和歌をもって歌壇で活躍することを責務とする専門歌人とし後鳥羽院から召され…
ここで、俊成卿女が土御門家の源通具に嫁いで以降の足取りを歌人としての側面から辿ってみたい。 20歳の頃の俊成卿女が源通具と結婚したのは、建久3年(1192)以前、むしろ建久元年(1190)頃とみられ、建久5年(1194)に女子を、正治2年(1200)に長男具…
祖父の藤原俊成から将来の御子左家を背負う女流歌人として育てられたと思える孫の俊成卿女は、建久元年(1190)頃に20歳で因幡守であった土御門家の次男源通具に嫁いでいる。 俊成卿女が、祖父俊成・叔父定家の主筋にあたる権門の九条兼実の政敵ともい…
既に「乱世の娘」で述べたように、俊成卿女は俊成卿の娘ではなく孫娘である。彼女は、藤原俊成と、大恋愛で結ばれた美福門院加賀との間に生まれた長女の八条院三条を母とし、藤原盛頼を父として生まれた。しかし、安元3年(1177)の鹿ヶ谷の変の首謀者とし…
相前後して後鳥羽院に見いだされて専門歌人として召された宮内卿と俊成卿女、歌壇へのデビューが15歳前後で後鳥羽院の大きな期待に押潰されてわずか5年足らずで夭逝した宮内卿、対して、後鳥羽院の期待と励ましを自信と創作エネルギー源として生涯におよ…
ここで『新古今和歌集』に入集した女流歌人の名前と入集歌数を一覧すると、 式子内親王49首、俊成卿女29首、二条院讃岐16首、宮内卿15首、 殷富門院大輔10首、宜秋門院丹後9首、小侍従・八条院高倉・七条院越前が各7首、 七条院大納言3首、信濃(後鳥羽院下…
離縁した夫・通具の実家の土御門家は、義父の通親と共に通具が揃って和歌所の寄人に任命されるほど和歌に長じた権門であった。 特に義父の通親は、若い頃の嘉応2年(1170)秋には自邸で歌合を催し、さらに同年催された「住吉社歌合」、「建春門院滋子北面歌合…
[乱世の娘] 実は俊成卿女は俊成卿の娘ではなく孫娘である。 彼女は、藤原俊成と、大恋愛の末に彼の後妻となった美福門院加賀との間に生まれた長女の八条院三条を母とし、藤原盛綱を父として生まれた。しかし、安元3年(1177)の鹿ヶ谷の変(※1)で、父盛親…
鴨長明は『無名抄』 「66 俊成卿女・宮内卿、両人歌の詠みやうの変はること」 に続いて、宮内卿の兄源具親(※1)について、共に和歌所寄人に任命された寂蓮の辛辣な評価を引用して次のように記している。 「67 具親、歌を心に入れざること」 寂蓮入道は…
ところで、後鳥羽院が最初に見いだしたのは宮内卿の兄・源具親(※)であった。建仁元年(1201)7月に後鳥羽院は寂蓮と共に具親を和歌所寄人として召し、その兄に続いて宮内卿も召されたのであった。 その当時の具親について、和歌所の事務長の源家長は『家…
後鳥羽院によって建仁元年(1201)に催された『千五百番歌合』で、十代最年少の専門歌人として臨んだ宮内卿が、藤原俊成以下の高名な歌人30人に伍して出詠。勝29、負26、持(引き分け)36の堂々たる成績で初舞台を飾った事は先回に延べた。 しかも、宮内卿…
宮内卿が後鳥羽院に見いだされたのは、正治2年(1200)頃で、父の村上源氏師光が、六条家に近い歌人として歌合で活躍し、『千載和歌集』に初入集、『新古今和歌集』に3首入集して、歌集『師光集』を著し、師光の父・師頼も、勅撰集『金葉和歌集』に初出、…
さて、後鳥羽院の新進女房歌人の発掘はどのように行われたのであろうか。『源家長日記』によれば、当時の身分の高い上臈女房が男性歌人に混じって歌壇で競うことを遠慮する風潮を考慮して、【品高き女房は、はばかり思はるらむ。されど、重代の人は苦しから…
しかし、実際は、『源家長日記』が下記に述べるように女房歌人は枯渇したのではなく 【(歌道)は心ある人のむげに思ひ捨てぬ道なれば、さる人も侍らむ。しかれども、何のついでにか言ひ出だし初めむ。高き女房は、ひたすらに慎ましき事にして、言ひ出さず。…
建久9年(1198)1月11日に19歳で土御門天皇に譲位した後鳥羽院が和歌に注力をと考え始めていた正治2年(1200)の前半は、まだ、宮廷歌壇の片鱗も見られなかったが、正治2年の後半から精力的に和歌の催しを推進する。 とはいえ、後鳥羽院歌壇の事実上…
(1)王権と女房 ・律令国家の女房・女官は、天皇に近侍してその補助と装飾をつとめて天皇と不可分の存在であり、そのために高貴性を身に纏っていた。 ・また、中世の女房・女官も王権と一体化し王権に密着した存在であった。 (2)「歌合」における女房歌人…
「この頃、世に女の歌詠み少なしなど、常に歎かせ給ふ。昔より歌よみと聞こゆる女房、少々侍り。殷富門院大輔も一年(ひととせ)失せにき。 又、讃岐、三河の内侍、丹後、少将(小侍従の誤写か)など申す人々も、今は皆齡(よはひ)たけて、ひとへに後の世の…
都うつりの比(ころ)後徳大寺左大臣、太皇大皇宮に参りて、 女房の中にて夜もすがら月を見て物語などして、暁帰りける時、 小侍従送り出でて侍りけるに、ともにありて申しける 藤原経伊 ものかはと君が言ひけむ鳥の音の 今朝しもなどか悲しけるらん 上記は…
家集「小侍従集」によると、小侍従(※)が、治承3年(1178)3月に59歳で突然出家して八幡八幡宮に引き籠った時に、かつての主の太皇大皇宮多子(まさるこ)から何故出家をした事を知らせてくれなかったかと問われて とふ人も波に漂ふ海士小舟(あまこぶ…
ある日、カフェでのんびりと『西行全歌集』のページを捲っていたところ、「山家集 中」に収められた西行と小侍従の次のような贈答歌が目に入ってきた。 院(後白川院)の小侍従、例ならぬ事大事に臥し沈みて 年月経にけりと聞こえて、訪(とぶら)ひにまかり…
さらにさかのぼれば、小侍従が26歳か27歳の頃で、久我雅通(※1)も中将か参議の若かった久安・仁平の時代(1145~53)、二人が人目を忍ぶ熱烈な恋人だった事を偲ばせる恋の唱和4首が『小侍従集』に残されている。 雅通 儚さもあふ名なりけり夏の…
小侍従 泊まりゐて 返らぬけふの心をぞ 羨むものと我はなりぬる 【女院のもとにお泊まりになったまま、仙洞御所にはお帰りにならない 院のお心を、ただ羨ましくのみみております】 後白河院 世の常の栖(すみか)を洞(ほら)の内にして 返らむ人と君をなさ…
前回述べた『平家物語 巻第五 月見』が伝える「待宵の小侍従」の名が決定的になった頃の小侍従は二条院に出仕した40歳前後の出来事と考えられるが、それにしても、二条帝后太宮の御前(おまへ)の『待つ宵と帰る朝(あした)とは、いずれか あはれは まさ…