新古今の景色(131)院政期(106)女房歌人の発掘(5)宮内卿(4)長寿な兄の人生

鴨長明は『無名抄』 「66 俊成卿女・宮内卿、両人歌の詠みやうの変はること」

に続いて、宮内卿の兄源具親(※1)について、共に和歌所寄人に任命された寂蓮の辛辣な評価を引用して次のように記している。

 

「67 具親、歌を心に入れざること」

 

寂蓮入道はことにことにこのことをいみじがりて、兄人(せうと)の具親少将兵衛佐の、歌に心を入れぬをぞ憎み侍りし。

「何ゆゑ身を立てたる人なれば、しかあるらむ。宿直(とのゐ)所をまれまれ立ち入りてみれば、晴の御会(ごくわい)などのある頃も、『弓よ、蟇目(※2)よ』など取り込みて、細工前に据ゑて、歌を大事とも思はぬ」とて、くちをしきことにぞいひ侍りし。

 

【寂蓮入道は、とくに、後鳥羽院宮内卿の兄の具親を少将兵衛佐に引き立て、さらに和歌所寄人に召したことをたいそうすばらしいことと思っているので、その具親が歌に熱心でないことを憎らしがりました。「彼は一体何によって立身したと思って、このようなのだろうか。宮中の宿直所にごくたまに立ち入って見ると、晴の御歌会などある頃でも、『弓だ、蟇目(※2)だ』などと持ち込んで、細工職人を前に座らせて、歌のことを大事とも思っていない」と言って、それを残念なことだと言いました。】

 

その後の具親は、北条義時の元妻で義時と離縁して入京した姫の前を妻として迎え、元久2年(1204)には男子輔通をもうけ、天福元年(1233)年8月頃に出家して法名を如舜と号した

 

歌人としては「正治後度百首」「千五百番歌合」及び「最勝四天王院障子和歌」(1207)などの数多くの歌合に出詠。『新古今和歌集』以下の6代の勅撰和歌集に21首の和歌が入集し、弘長2年(1262)に『三十六人大歌合』に出詠しているが、その時は、既に80余歳の高齢だったが、妹の宮内卿ほど和歌に対して熱心ではなかったとされる。

 

(※1)源具親:生没年未詳。弘長2年(1262)に八十余才で生存。村上源氏。師光の息子、母は絵師・巨勢(こせ)宗茂の娘で後白河院安芸。宮内卿は同母妹。左近少将従四位下に至った。和歌所寄人の1人。新古今集初出。

 

(※2)蟇目:ひきべ。

引目・曳目・響矢などとも。長さ4・5寸(大きいものでは1尺を越えるものもある)の卵形をした桐(きり)または朴(ほお)の木塊を中空にし、その前面に数箇の孔(あな)をうがったもので、これを矢先につけ、射るものを傷つけないために用いた。故実によると、「大きさによって違いがあり、大きいものをヒキメといい小さいものをカブラという」とあるように、もともと同類のものであったようである。その種類には犬射(いぬい)蟇目、笠懸(かさがけ)蟇目などがある。またその名の由来については前面の孔が蟇(ひきがえる)の目に似ているという説や、これが飛翔(ひしょう)するとき異様な音響を発し、それが蟇の鳴き声に似ているとされることから魔縁化生のものを退散させる効果があると信じられ、古代より宿直(とのい)蟇目・産所蟇目・屋越(やごし)蟇目・誕生蟇目などの式法が整備されてきた。今日でもこの蟇目の儀は弓道の最高のものとして行われている。

 

参考文献:『無名抄 現代語訳付』鴨長明 久保田淳訳注 角川ソフィア文庫