宮内卿が後鳥羽院に見いだされたのは、正治2年(1200)頃で、父の村上源氏師光が、六条家に近い歌人として歌合で活躍し、『千載和歌集』に初入集、『新古今和歌集』に3首入集して、歌集『師光集』を著し、師光の父・師頼も、勅撰集『金葉和歌集』に初出、『新古今和歌集』に2首入集している重代の家であったことから、新進女房歌人を発掘していた後鳥羽院の眼鏡に叶い、こうして宮内卿は後鳥羽に専門歌人として仕える女房としてのスタートを切ることになった。このことについて、藤原定家は当時の『明月記』に「師光の娘」として記している。
ここで、父・師光について述べると、師光の祖父は堀川左大臣俊房、父は小野宮大納言師頼であるのに、師光自身は閑職の正五位下右京権太夫という、官位においてまるで絵に描いたような末窄まりで終わっているのは、師光が保元の乱で破れた藤原頼長(※)の猶子であったためとされている。
その後師光は、建久6年(1195)以前に出家して生蓮と名乗り、最晩年の70歳頃に後鳥羽院歌壇に呼ばれて「正治初度百首」に出詠、「千五百番歌合」では「祝・恋一」の判者を勤めて、元久元年(1204)頃に没とされる。
建仁元年(1201)初めて宮内卿の女房名で『千五百番歌合』に十代最年少歌人として、
藤原俊成以下の高名な歌人30人に伍して出詠。勝29、負26、持(引き分け)36の堂々たる成績でデビューを飾る。
(※)藤原頼長:平安後期の貴族。忠実の次子。左大臣。父・忠実の庇護を受けて兄・忠通と対立し、氏の長者となる。鳥羽上皇の信任を失い、崇徳上皇側について勢力挽回を図って保元の乱を起こしたが戦死。悪左符と呼ばれた。日記『台記』を表わす。(1120~1156)
参考文献:『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書