ところで、後鳥羽院が最初に見いだしたのは宮内卿の兄・源具親(※)であった。建仁元年(1201)7月に後鳥羽院は寂蓮と共に具親を和歌所寄人として召し、その兄に続いて宮内卿も召されたのであった。
その当時の具親について、和歌所の事務長の源家長は『家長日記』では次のように記している。
【この人は、右京権太夫入道師光の子である。仁和寺のほとりにかすかな様子で住んでいたが、召し出されてやがて兵衛佐(ひょうえのすけ)になされたのを、父の入道は涙も拭いきれぬまで喜ばれたのは、もっともなことだと思われた。
いえばお気の毒なことに、具親もこれほどまでに沈みはててしまわれるような血筋でもないのだ。それを父の師光のことの関わりから出仕できず詫びすんでおられたのだった】
父・師光の祖父は堀川左大臣俊房、父は小野宮大納言師頼であるのに、師光自身は閑職の正五位下右京権太夫で終わっているのは、師光が保元の乱で破れた藤原頼長の猶子であったためとされ、父の没落に伴い具親も都の外れで詫び住いをせざるを得なかったのである。
ところが、具親は召し出されて間もない建仁元年(1201)の八月十五夜に、和歌所で催された「撰歌合」の場を早退して後鳥羽院の偏愛ともいえる異常な扱いを受けている。
この「撰歌合」の夜は常よりも清明な名月で、一点の曇りもなく晴れ渡った夜空に後鳥羽院も深く感動していたというのに、具親は急な用事が出来たと和歌所を早々と退出したのであった。
具親のこの行動に後鳥羽院は大いに落胆して「よべ(昨夜)の月にしも具親早出したること、くちをしさ思ひしずめがたし。早くわか所にめしこむべし」との命をうけて、翌日家長が使いを遣ると具親は恐縮して参上したので、後鳥羽院の命令通り彼を和歌所の一室に押し込めたと「家長日記」に記している。
その、「撰歌合」は、具親の妹の宮内卿にとって、後に撰者4人の評価を受けて、『新古今和歌集 巻第五 秋歌下』に入集することになった下記の歌を詠んだ晴れの場でもあったのに。
479 まどろまで ながめよとての すさびかな 麻のさごろも 月に打つ声
【月の光の下、誰かが麻衣を打つ砧の声が聞こえてきます。これはきっと
わたしにまどろまずに月をじっと見つめなさいというので、手すさびに
している業なのですね】
(※)源具親:生没年未詳。弘長2年(1263)までは生存。村上源氏。師光の次男、宮内卿の兄。従四位下左近少将。法名は如舜。和歌所寄人。『新古今和歌集』初出、7首入集
参考文献: 『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書