後鳥羽院によって建仁元年(1201)に催された『千五百番歌合』で、十代最年少の専門歌人として臨んだ宮内卿が、藤原俊成以下の高名な歌人30人に伍して出詠。勝29、負26、持(引き分け)36の堂々たる成績で初舞台を飾った事は先回に延べた。
しかも、宮内卿が初舞台で競った相手は、後鳥羽院が『新古今和歌集』撰集のために建仁元年(1201)7月に設置した和歌所寄人のトップバッターに指名され、続く同年11月には勅撰の宣旨を下して選ばれた6人の撰者の1人の寂蓮であり、
うすくこき野辺の緑の若草に 跡までみゆる雪のむら消え
を詠じて、勝利する大番狂わせを演じたばかりではなく、この歌によって後々まで
「若草の宮内卿」の名を轟かせることになる。
ところが、その2年後の建仁3年(1203)に、後鳥羽院から藤原俊成が賜った「九十賀の賀宴」において、宮内卿は代表歌人として賀歌を詠じる機会を与えられたが、下句の出来が今ひとつであったのか識者によって訂正された打撃が大きかったようで、翌年の元久元年(1204)の「春日社歌合」以降は1首も出詠せず、そのことから彼女の死亡が推察された。
ところで、鴨長明は『無名抄 66 俊成卿女・宮内卿、両人の詠みやうの変はること
』で宮内卿の歌詠みの姿勢について次のように描いている。
今の後鳥羽院御所では俊成卿女(しゅんぜいきょうのむすめ)と聞こえる人と宮内卿と、この二人の女房歌人が、昔の名高い女房歌人にも恥じない歌の上手と称されています。
この二人の歌の詠み方は他の人たちとは大きく異なっていているようです。人の申しますには、俊成卿女は、晴の歌を詠もうとする時は、日頃から様々な家集類などを繰り返し々よく見て(中略)、
他方、宮内卿の方は初めから終いまで草子や巻物などを集めて部屋に持ち込み、切灯台を近くに置いて火をともし、少しずつ少しずつ書き取り、書き取って寝る間を惜しんで夜も昼も怠ることなく歌を案じています。
この人は熱心に歌を詠むことに没頭したので一度は病に陥り死にそうになった事もあります。宮内卿の父禅門(入道源師光)は娘の身を案じて「何事も先ずは命があってこそで、死に直面するような病になるまでどうして歌を案じるのか」と諌めたが遂に亡くなったのは無理がたたった結果に他ならない。
これらの事から窺えるのは、宮内卿の歌人としての活動期間は長く見ても正治2年から元久元年までのわずか5年(十五歳頃から二十歳頃)足らずと見られている。
ところで、『増鏡(※1)』では、『千五百番歌合』に抜擢された宮内卿が、歌合の場で、後鳥羽院から「かまへてまろが面(おもて)起こすばかりよき歌つこうまつれよ」と奨励されたとき、過剰な期待のことばに涙ぐみながら耐えている姿を伝えており、この記述から、後世、心敬(※2)などによって苦吟の余り血を吐いて没したと伝えられるような薄命の夭折者というイメージが強まっていく。
(※1)増鏡:ますかがみ。歴史物語。17巻または19巻。治承4年(1180)~元弘3年(1333)、後鳥羽天皇降誕から後醍醐天皇の隠岐還幸まで、鎌倉時代15代150年余年間の事跡を編年体で記す。作者は二条良基説が有力。
(※2)心敬:しんけい。(1406~1475)。室町中期の歌人・連歌師。紀伊の人。七賢の1人。権大僧都。比叡山で修行の後、山城の十往心院に住し、応仁の乱を避けて相模大山の麓に隠棲して没。和歌を正徹に学び、冷え寂びた心境を求めた。歌集『芝草』、連歌論『ささめごと』など。
参考文献:『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書
『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫