新古今の景色(144)院政期(119)女房歌人の発掘(18)俊成卿女(13)姪に対する定家の警戒心(2)

「皇太后太夫俊成卿女」あるいは「俊成卿女」という女房名は、宮内卿・越前・大輔といった一般的な女房名と異なり、御子左家の、さらには、藤原俊成の後継者を示す家名に基づくもので、俊成卿女にとっては彼女の存在そのものを意味し、御子左家のあるいは祖父藤原俊成の名を背負って後鳥羽院歌壇及びその後の順徳天皇歌壇で活発に出詠してきた。

 

ところで承久の乱により後鳥羽院及び順徳院が配流された後の歌合をみると、寛喜4年(1232)3月に催された「石清水若宮歌合」では「俊成卿女」であったが、同年3月の「日吉社撰歌合」では一変して「侍従源朝臣具定母」となり、貞永元年(1232)成立の「洞院摂政家百首」及び同年8月十五夜の「名所月歌合」では「三位侍従母」と変化している。

 

これらの女房名は俊成卿女自身の意志によるものとは理解し難く、当時の歌壇の中心的指導者であった定家の意図によるものと思われる。

 

そして極めつきは、定家が撰集し今日も親しまれている「百人一首」には、女房歌人としてそれほど評価が高かったとは言い難い右近・祐子内親王紀伊・皇嘉門院別当を採りいれているが、後鳥羽院歌壇でまばゆい光彩を放った宮内卿と俊成卿女は除かれていた。

 

そこには、御子左家及び父俊成の後継者は、自分をおいてはあり得ないという定家の強い自意識と、自らは後鳥羽院にそれほど評価されていなかった裏返しとして、後鳥羽院に重用された宮内卿と俊成卿女への嫉妬と反発が読み取れる。

 

しかるに仁治2年(1241)の定家没後から再び「俊成卿女」の女房名が戻っている。

 

これは、後鳥羽院皇統を継ぐ後嵯峨院歌壇が、後鳥羽院歌壇を憧憬し、継承しようとする流れから、後鳥羽院が高く評価し重用した女房歌人を当時の「俊成卿女」名に戻すことを、良しとする流れになったと思われる。

 

その顕著な現れとして後嵯峨院歌壇における歌合「百首歌」や為家の催した撰歌合の全てで「俊成卿女」の女房名が復活している。

 

また、為家が後嵯峨院の命により建長3年(1251)に撰集した『続後撰和歌集』でも、「皇太后太夫俊成卿女」の女房名を復活させている。

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                    田渕句美子 角川選書