再婚者同士の幾多の障害を乗り越えて俊成が美福門院加賀と結婚をし、願ってもない天才歌人の定家が生まれたのは俊成が49歳の時であったが、このことは、既に御子左家の後継者として俊成の養子となった当時24歳だった定長の将来を大きく変え、彼は、出家して寂蓮と称し、後に若き藤原家隆を歌道上の婿に迎えて、共に御子左家を支える事になる。
その事はさておき、俊成は美福門院加賀との結婚により、彼女が前夫の為経(寂超)との間に産んだ隆信を手元で育てるのだが、この隆信こそ、今も世界屈指の肖像画と評される『国宝・伝頼朝像』の作者である。
当時、似絵(肖像画)の第一人者と謳われていた藤原隆信は、生母が美福門院加賀であったことから後白河法皇の近臣として仕えており、その腕を買われて法皇の命により描いたものであろうとされている。
(上図は「伝源頼朝像 神護寺所蔵」『頼朝の天下草創』 山本幸司 講談社より)
この「伝源頼朝像」についての経緯は「神護寺略記」を参照されたい。
http://www.jingoji.or.jp/treasure16.html
また、タイミングの良いことに、当「伝頼朝像」の展示を含む「神護寺展」が国立博物館平成館で7月17日から9月8日迄開催されますのでご関心のある方はどうぞ。
https://tsumugu.yomiuri.co.jp/jingoji/highlight.html
私自身は、特に「伝頼朝像」の作者に関して、最近識者の間で異論が出ているようなので、現在の公的な見解も知りたいので足を運ぶ積もりです
その他にも、藤原隆信が描いたとされる法然上人の肖像画は、今でも「総本山知恩院」の公式サイトで観る事が出来る。
https://www.chion-in.or.jp/okotoba/
ところで話しはそれだけでは終わらない。大阪・水無瀬神宮に現存する『国宝 後鳥羽天皇像』は隆信の息子・信実(のぶざね)の筆とされ、承久の変に破れて隠岐へ配流と決まった後鳥羽院が、その直前に出家剃髪するに当たり落飾前の姿を信任の篤かった信実を召して写させたものされている。
「信実は面貌の描写に堪能であったとされる藤原隆信の息子で、父と同様に宮廷の職を勤める傍ら似絵にも携わり特に人物の「真影」に長じていたことが『明月記』などにより知られる」と奈良国立博物館で2007年に開催された『特別展 美麗 院政期の絵画』図録は『後鳥羽天皇像』の作品解説で述べている。
https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/200709_insei/
参考文献: 『特別展 美麗 院政期の絵画』図録の『後鳥羽天皇像』
で、これらの事柄から私は勝手に想像して、御子左家(※1)に会する煌めく天才達の相関図を書いてみた。
(※1)御子左家(みこひだりけ):藤原俊成・定家以降、中世において勅撰集撰者を代々拝命して中世歌道家の頂点に立った家。御子左とは醍醐天皇皇子左大臣源兼明を指し、その邸は御子左家と呼ばれたが、その邸宅を伝領した俊成・俊海の曾祖父の藤原長家(道長六男)を祖とする家系を御子左家と称している。
《閑話休題》
もし、美福門院加賀が現在の女性であれば「天才児の育て方」をテーマにした執筆依頼が殺到したことであろう。私としても御子左家の一堂に会した天才達がどのように交流していたのか知りたくて仕方が無い。