『千五百番歌合』とは後鳥羽院が主催した正治2年(1200)の『院初度百首』と同年の『院第2度百首』、及び建仁2年(1201)の『院第3度百首』を後に歌合として纏め、それに判詞あるいは判歌を付して史上最大の「歌合」にしたもので、この中から『新古今和歌集』に90首が入集している。
詠進歌人は、
左方15人:後鳥羽院、良経、慈円、公継、公経、秊能、宮内卿、讃岐、小侍従、隆信、有家、保秊、良平、具親、顕昭、
右方15人:惟明親王、通親、忠良、兼宗、通光、釈阿(俊成)、俊成卿女、円後、越前、定家、通具、家隆、雅経、寂蓮、家長、
「部立て」は、春20・夏15・秋20・冬15・祝5・恋15・雑10の100部で、左右に分かれた30人の歌人がそれぞれ100首を詠んだ3000首を番えて1500番の歌合とした。
判者は、「春一・二」は忠良、「春三・四」は俊成、「夏三・秋一」は良経、「秋二・三」は後鳥羽院、「秋四・冬一」は定家、「冬二・三」は秊経、「祝・恋一」は生蓮(師光)、「恋二・三」は顕昭、「雑一・二」は慈円が務めたが、「夏一・二」は判者を務めた通親が建仁2年(1201)に没したため無判となっている。
また、判者の中でも良経は「七言の二句ずつの判詞」、後鳥羽院は「折句による判歌」、顕昭と慈円は「判歌」を用いるなど判の下し方が多様であったのもこの歌合の特徴であった。
この歌合での寂蓮は右方に属して勝40、持(引分)23、負26、無判11となかなかの好成績であったが、残念なことには、歌合としての結審・判定がなされたのは彼の没後の建仁3年(1203)春頃であった。
次にこの歌合における寂蓮の詠歌を幾つかを採りあげたい。
最初は『新古今和歌集』(巻二・春下・一五五番)に入集している次の歌から。判者は釈阿(俊成)であった。
春四、 二百五十三番 左持(引分) 良平
ちるおりもふるにまがひし花なれば またこのもとにのこるあはゆき
【散るときも雪が降るのと同じように区別のつかない桜の花だから また
木下に残っている淡雪であることよ】
右 寂蓮
ちりにけりあはれうらみのたれなれば 花のあととふ春のやまかぜ
【桜の花ももう散ってしまった。山風が花を散らしたのであるのに、花を
散らした恨みの相手は誰だと 花の散った跡を訪れて吹く春の山風よ】
判詞 釈阿(俊成)
左、又 このもとにのこるあはゆき、心詞をかしく侍るを、右、あはれうらみ
のたれなればなどいへる心も宜しく侍るにや、よりて持(引分)にや侍らむ。
ところでこの寂蓮の歌は『古今和歌集』(巻二・春下・七十六番)に採られている素性法(※)の次の歌から影響を受けたとされている。
さくらの花のちり侍りけるを見てよみける そせい法し
花ちらす風のやどりはたれかしる 我にをしへよ行きてうらみむ
【桜の花を吹き散らす風が今夜泊まるところを 誰が知っているだろうか
私に教えて下さい。訪ねていって恨みを言ってやるのに】
(※)素性法師:平安前期の歌僧。生没年未詳。僧正遍昭の子。出家して雲林院に住む。別称、良因朝臣(よしよりのあそん)三十六歌仙の一人。『古今和歌集』の代表的歌人。勅撰集に約六十首入集。清和天皇に仕え後に出家した。家集『素性法師集』
参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版