新古今の景色(89)院政期(64)寂蓮の遁世(2)御子左家の後継時代

尊卑分脈』(※1)によれば、藤原定長(寂蓮)は久安年間(1145~1150)の末頃、藤原俊成の養子になっている。この時、俊成には既に嫡男の成家がいたが、彼に歌道の御子左家(※2)を継がせる才能はないと見切りをつけた俊成が、当時12、3才ながら歌才の萌芽を見せていた甥の定長を自分の後継者とすべく養子にしたのである。

 

その頃の中央歌壇で中心的な役割を果たしていたのは、『詞華集』(※3)を撰進した藤原顕輔やその息子の清輔・重家・顕昭・李経などの六条藤家(※4)であり、御子左家の藤原俊成は「重家家歌合」「住吉社歌合」「建春門院北面歌合」「広田社歌合」など主要な歌合の判者を務めて存在感を示しつつあったが、中央歌壇のリーダーとしての地歩を築くに至っていなかった。

 

定長が御子左家の歌道の後継者を期待されて藤原俊成の養子となったのはまさにそんな時で、彼はその期待に応えるべく叔父俊成の厳しい指導の下で研鑽を積み、先回述べた『平経盛朝臣家歌合』を初め、『実国卿家歌合』、『住吉社歌合』、『公通家十首会』、『宰相入道観蓮歌合』、『後徳大寺実定家結題百首』、などの様々な歌合や歌会に積極的に出詠しているが、ここでは、定長が出家・遁世する2年前に出詠した『住吉社歌合』から「述懐」の歌を採り上げたい。

 

『住吉社歌合』は嘉応2年(1170)10月9日に、和歌の神社として尊ばれていた住吉社の社頭で藤原敦頼が催したもので、歌題「社頭月」・「旅宿時雨」・「述懐」の三題を歌林苑の殷富門院大輔やベテラン女流歌人小侍従、及び定長を含む歌人50人が番えて競うもので、判者は定長の養父の藤原俊成であった。

                                                                                         

この歌合で定長は前斎宮大輔(後の殷富門院大輔)と競って、持(引分)2、負1の成績に終わっているが、その中から「述懐」の歌を採りあげるのは、この歌には定長の出家への迷い窺えると私が深読みしたからである。

 

          左勝       前斎宮大輔

  すみよしのなごのはまべにあさりして けふぞしりぬるいけるかひをば

  【住みよしという名で名高い、住吉の名児の海の浜辺で魚や海藻などをとって、

   今日生きている価値を知ったことだ】

 

          右        定長

  なげかじな よはさだめなきことのみか うきをもゆめとおもひなせかし

  【嘆くことはないことよ。この世の中は無常であることだけであろうか。憂き

   ことをも夢と思うことにせよ】

 

          判詞       藤原俊成

左歌、こころしかるべし、すがた又ひとつの体なるべし、右歌も、ひとつの俗にちかきすがたなれど、ことのみか、と、おき、なせかし などいへる、なほ むげにすてたることばなり、左をこそはかつと申すべく

【左の大輔の歌は、趣がふさわしい。表現の方法もまた一つの様式である。右の定長の歌も、一つの世俗的に近い表現の仕方であるが、「ことのみか」と置き、「なせかし」と読んでいる。やはり捨てた表現である。左の大輔の歌を勝ちとするのがふさわしい】

 

この組み合わせで、定長が大先輩の大輔に負けるのは無理も無いとしても、何とも抽象的な表現で判者を務めた俊成の底深い心情には、俊成自身も絡んでいる事から、定長の心中を察して判定がしにくかったのでは無いかと、私は深読みしてしまった。

 

というのは、この歌合の頃には、応保2年(1162)の俊成が49歳の時に誕生した定家が9歳に成長し、高齢にして思いもかけず授かった息子は可愛いだけではなく歌の才能も優れ、長子成家で諦めていた自分の直系に御子左家を継がせる期待も再燃して、定家への歌の指導も半端ではなかったと思われる。そんな俊成と定家の姿を日々目にする定長の心中はいかばかりであったろうか。

 

(※1)『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』:源・平・藤原・橘など日本の主要な諸氏の系図。洞院公定著。巻数は不定。諸系図のうちで最も信頼すべきものとされる。

 

(※2)御子左家(みこひだりけ):藤原俊成・定家以降、中世において勅撰集撰者を代々拝命して中世歌道家の頂点に立った家。御子左とは醍醐天皇皇子左大臣源兼明を指し、その邸は御子左家と呼ばれたが、その邸宅を伝領した俊成・俊海の曾祖父の藤原長家道長六男)を祖とする家系を御子左家と称している。

 

(※3)『詞華集』:勅撰和歌集八代集の一つ。10巻。天養元年(1144)藤原顕輔崇徳上皇院宣を受けて撰集。

 

(※4)六条藤家:藤原顕季を祖とし、顕輔・清輔・重家・顕昭等の歌人を輩出。源経信→俊頼→俊恵を六条源家と称するのに対し、六条藤家と呼ばれる。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版