新古今の景色(90)院政期(65)寂蓮の遁世(3)『歌仙落書』の評価

定長が出家する直前の承安2年(1172)に成立したとされる『歌仙落書』は、藤原公光・藤原清輔・徳大寺実定・藤原為経(寂超)・小侍従・殷富門院大輔・二条院讃岐など、当時の代表的な歌人20人の詠歌を収めたもので、定長もその1人として4首が収められており、この頃には既に歌人として高く評価されていた事がうかがわれる。

 

 

『歌仙落書』の序文は出詠歌人を『古今和歌集・仮名序』の六歌仙評にならった文章で記され、定長は9世紀の女流歌人小野小町評にそって批評されているが、その小町評は、

 

「おののこまちはいにしへのそとおりひめの流なり、あはれなるやうにてつよからず、いはばよきをうなのなやめる所あるににたり、つよからぬはをうなのうたなればなるべし。

小野小町の歌は昔の衣通姫(※)の系統である。しみじみと心打たれるところはあるが強くはない。いうなれば高貴な女性が病に悩んでいる様に似ている。強くないのは女性の歌であるからであろう】」

 

先ずは、上記の小野小町評に添った中務少輔定長の歌風の批評、

 

風体あてやかにうつくしきさまなり、よわき所やあらむ、小野小町が跡をおもへるにや、美女のなやめるをみる心地こそすれ

【歌風は上品で優雅な様子であり、弱いところがみられるのは、小野小町の歌風を思わせるからで、病んだ美女が悩んでいる姿を見るような気持がするからか】

 

定長の出詠歌 4首

 

           霞隔浦

へだてする明石のとまで漕ぎくれば 霞もすまにうらづたひけり

【遠く隔たった明石の海峡まで漕いできてみれば、霞も浦から浦を伝って須磨の

辺りまできているよ】

 

           旅行五月雨

さざれ石の上ふみこえしわすれ水 駒もかよはず五月雨の頃

【野中の細石(さざれ石)の上を人に知られることなくちょろちょろと流れている

水も、五月雨の頃になると馬も通ることが出来ないくらいの流れになるよ】  

 

           述懐

逢坂のせきの清水にかげみれば また詫人も世にはありけり

【人里離れた逢坂の関の清水に映る人影を見れば、世間から離れてわびしく暮ら

す人もまだこの世にはいるのだな 】

 

    物申しける女の身まかりにける後のとし久しくなりて住みける家の前を過ぐ

    とて見入りて侍りければ、ありにしもあらずあれにければよめる

    【以前に関わっていた女性が亡くなってから年月を経て、その女性が住んでい 

     た家の前を通る機会があったので家の外から様子を眺めたところ、嘗ての有

     様と余りにも違って荒れ果てていたので詠んでみた】

    

思ひ出づる事だにもなくは大かたの 物さびしかるやどとみてまし

【かつて知っていた女性の住処だと思い出すこともなかったら、どこにでも

見られる荒れ果てて寂しい家と見ていたことだ】

 

(※)衣通姫(そとおりひめ):美しい肌の色が衣を通して照り輝いたという『日本書紀』で允恭天皇の妃、弟姫(おとひめ)の事。姉皇后忍坂大中姫の妬みを買い、河内国に身を隠した。後世、和歌浦の玉島神社に祀る。和歌三神の一つ。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版