ところで、藤原清輔の略伝は次のようなものである。
藤原清輔は長治元年(1104)に藤原顕輔男の息子として生まれ治承元年(1177)に74才で没した。弟に、重家、顕昭、季経がおり、極位は正四位下太皇太后宮太大進。
父顕輔より人麿影を授けられた事から歌道の六条藤家を継ぎ、一時は台頭する藤原俊成の御子左家と歌壇を二分し、歌合を主催し、多くの歌合の判者を務め、嘉応元年(1169)から嘉応3年(1171)頃には九条兼実家の歌の師も務め、準勅撰集『続詞華集』を撰し、歌学書『奥義抄』『袋草紙』、家集『清輔朝臣集』を著わす。
中古六歌仙、千載初出、『千載和歌集』20首入集、『新古今和歌集』12首入集。
次に『千載和歌集』、『新古今和歌集』の藤原清輔の入集歌から一首ずつ採り上げてみた。
『千載和歌集』 巻第一 春歌上
崇徳院に百首歌たてまつりける時、春駒の歌とてよめる
35 みもごりにあしの若葉やもえぬらん 玉江の沼をあさる春駒
【水の中に隠れて蘆の若葉が萌えでたのであろうか、玉江の沼を
春駒があさっているよ】
『新古今和歌集』 巻第一 春歌上
崇徳院に百首歌たてまつりける時
34 あさ霞 深くみゆるや けぶり立つ 室の八島の わたりなるらむ
【朝霞が深く見えるのは、水煙が立つ室の八島あたりなのであろうか】
ところで、当時の歌壇のリーダーとして歌合の判者を務めた藤原俊成と藤原清輔の依怙贔屓について、清輔の義弟の歌人・顕昭の見解を記した鴨長明の『無名抄 61 俊成・清輔の歌の判、偏頗あること』を採り上げたい。
顕昭が申しますには、
〔この頃の和歌の判者としては、俊成卿と清輔朝臣が双璧でしよう。しかしながら、ふたりとも、依怙贔屓をする判者であり、また、そのやり方もそれぞれ違っています。
俊成卿は、自分自身も間違うことがあるとわかっている様子で、大事なポイントを大して論議をする事もなく『まあ、世間の習慣だから、こんなものでしよう』などと言った調子で意見を述べられる。
清輔朝臣は、表面は非常に清廉に見えて依怙贔屓などということを露ほども顔に表さずに、時に人が首をかしげたりすると、顔色を変えて論争して、自分の正しさを言い張ったりすると、居合わせた人々はみな、その事を知っているので、誰も異を唱えたりすることもなかった〕
流石に歌学書や注釈書を多く著わした理論派の顕昭ですが、いくら腹違いの弟と言っても、兄に対する批判は強烈過ぎるように思える。
ところで顕昭は六条藤家を引き継いだ兄と異なり、少年時より叡山で修行した後に後白河天皇第二皇子・守覚法親王が門跡の仁和寺に入寺して法橋の地位に昇っている。
ここに俊恵の腹違いの弟で、叡山で阿闍梨に上り詰めた祐盛法師と共通する兄に対する屈折した感情をみるのは深読みであろうか。
参考文献:『無名抄 鴨長明 現代語訳付き』 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫