健保元年(1213)年に43歳で出家した俊成卿女は暫くして洛中嵯峨に隠棲するが、それは、夫・通具と彼女の妹が相次いで他界した後の嘉禄3年(1227)頃と思われ、当時の定家の『明月記』には、その頃の俊成卿女について「嵯峨禅尼」あるいは「中院尼上」と記している。
承久の乱により後鳥羽院、順徳院が相次いで配流された後の中央歌壇では、定家が指導的な役割を果たしていたが、嵯峨に隠棲した俊成卿女はそれまでとは変わらず作品を詠進していた。
また、御子左家の後継者として定家の息子の為家が催した寛喜元年(1229)の『為家家百首』や、寛喜2年(1230)の『洞院摂政家百首』などにおいても、俊成卿女は円熟した女流歌人としての存在を発揮していた。
新勅撰集 恋四
題しらず 侍従具定母
914 なれなれて 秋にあふぎをおく露の 色もうらめし 寝屋の月影
【あの人と逢瀬を重ねて馴れ親しみ、夏が過ぎて手馴らした扇を
うち置く秋となった時、そのように私も飽きられて捨てられ、
秋になって置く露の色も恨めしく涙を落としている。その涙の
露には、私一人の閨に差し込む月の光が映じている】
この歌は、もとは『為家家百首』」に出詠した1首だが、『洞院摂政家百首』にも含められ、自撰家集『俊成卿女集』にも「衛門督殿(※1)への百首」として自ら採り入れる程の自信作でもあったようだ。
ところで、この歌を『新勅撰集』に採り入れたのは定家であるが、俊成卿女は定家の『新勅撰集』撰集にあわせて撰集資料の意味で『俊成卿女集』を提供したにも拘わらず、その中から定家が採り入れたのはわずか8首に過ぎず、『新古今和歌集』では俊成卿女より遙かに入集歌の少なかった殷富門院大輔は15首、二条院讃岐は13首、八条院高倉は13首入集しており、その上『新勅撰集』では作者名としての「俊成卿女」という名前は一切使用されなかった。
(※1)衛門督殿:藤原為家を指す。
参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人~式子内親王たちの新古今集』
田渕句美子 角川選書