新古今の景色(141)院政期(116)女房歌人の発掘(15)俊成卿女(10)本歌取りの名手

新古今和歌集 恋歌四』に採られた俊成卿女の歌は、前回述べた巻軸に置かれた二首だけではなかった。

 

新古今和歌集 恋歌四』に採られた三首目の次の歌は、建永元年(1206)7月に後鳥羽院が和歌所で催した当座歌合の出詠歌で、その後に後鳥羽院が自ら『新古今和歌集』に採りいれたばかりか、承久の乱後に流された隠岐の島で嘉禎2年(1236)後鳥羽院57歳の時に自ら精選して、『新古今和歌集』から三百数十首を除去して約千六百首を残した『隠岐新古今和歌集』にも入集している。

 

          新古今和歌集 巻第十四 恋歌四

                   皇太后太夫俊成卿女

1326 露払うねざめは秋の昔にて 見はてぬ夢に 残る面影

     【哀しみのあまりあふれる涙の露を払ってねざめする私は、秋にあって

      もう飽きられてしまって、愛し合ったのは昔のことになり、今は見果てぬ

      夢に残る恋しい面影は】

 

ところでこの歌は、下記の歌から本歌取りされている。

 

                                     後撰和歌集(※) 恋三 よみ人知らず

770 夢路にも宿かす人のあらませば 寝ざめに露は払らはざらまし

 

 (※)後撰和歌集:天暦5年(951)大中臣能宣清原元輔、源順(したごう)、

              紀時文、坂上望城(もちき)ら、梨壺の5人が撰進した勅撰和歌集

 

また、次の歌は、俊成卿女が後鳥羽院出仕前の建仁元年(1201)夏に催された『千五百番歌合』の出詠歌から『新古今和歌集』に採りいれられたもので、       

 

          新古今和歌集 巻第五 秋歌下

       千五百番歌合に     皇太后太夫俊成卿女

515 訪ふ人も あらし吹きそふ秋は来て 木の葉に埋づむ 宿の道芝」

    【もはやあの人は訪れてこないでしょう。ただでさえさびしい上にあらしの

     吹く秋がやってきて、あの人が踏み分けてきた私の家の道芝は、木の葉に

     埋もれてしまいました】

 

そして、この歌も

 

              拾遺集  秋

205 とふ人も 今はあらしの山風に 人待つ虫の 声ぞ悲しき

 

と、『源氏物語 箒木』の夕顔の歌

 

うちはらう 袖も露けき常夏に あらし(※1)ふきそふ 秋も来にけり(※2)

 

                    (※1)あらし:頭中将の妻から受けた仕打ち

                    (※2)秋も来にけり:頭中将に飽きられた自分

 

の二首を本歌として詠んでおり、俊成卿女は本歌取りの名手と称された。

 

ところで、和泉式部赤染衛門・小侍従・殷富門院大輔などが活躍した相聞歌・贈答歌などが主であった女房歌人の時代と異なり、専門歌人としての立場を要求されていた後鳥羽院歌壇では、「歌合」「歌会」の席で題詠歌を競うことが求められたこともあり、歌人達は『古今集』などの王朝和歌集だけではなく『伊勢物語』『源氏物語』などの物語からも「本歌取り」を作詠しており、その中でも俊成卿女は「本歌取り」を得意としていたようだ。

 

このことは、俊成卿女が、建春門院に出仕した健御前を初めとする俊成卿や定家の娘達のように、宮廷女房として育てられる事も無く、むしろ、祖父母(周囲は歌人ばかり)や叔父の定家達から、源氏物語などをはじめとした古典文学や古典和歌等を学び、かつ、文治4年(1188)に藤原俊成が撰進して完成した「千載和歌集」の編集を手伝った事なども本歌取りの素養を養ったと云えるのではないか。

 

参考・引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                                                           田渕句美子 角川選書

                             『新潮日本古典集成 新古今和歌集 下』

                                                                          久保田淳校注 新潮出版

         『日本詩人選10 後鳥羽院』 丸谷才一 筑摩書房