新古今の景色(113)院政期(88)寂蓮の遁世(26)『仙洞影供歌合』~最後の歌合

建仁2年(1202)5月26日に後鳥羽院が主催した『仙洞影供歌合』は、寂連最後の歌合とされ、その2ヶ月後の7月に寂連は入滅した。

 

ところで「影供歌合」とは元永元年(1118)、平安期の歌人・藤原顕季が歌会の場に、歌聖と称された柿本人麿の像を懸けたことが始まりとされている。

 

(人麻呂影供を描いた親鸞の曾孫・覚如の伝記絵巻『慕帰絵』 藤原隆章筆 

芸術新潮2018年9月号より」)

 

そして、誰よりも和歌の繁栄を期した後鳥羽院は、建仁元年(1201)7月27日に和歌所を設置した直後に、和歌所での初めての歌合として『人麿影供』のしきたりに則って『和歌所影供歌合』を催した。

 

その時の、出詠歌人は36人、歌題は「初秋暁露」「関路秋風」「旅月聞鹿」「故郷虫」「初恋」「久恋」の6題を競い、判者は釈阿(俊成)が勤めたが、判者の歌は衆議判、勝負付はされたが判詞は記されていない。そして、めざましい成績を収めたのは後鳥羽院・良経・内大臣通親・慈円・釈阿、それに対して不面目な成績だったのは定家・雅経・有家・讃岐そして寂蓮であった。

 

今回採りあげる『仙洞影供歌合』では出詠歌人は26名、歌題は「暁聞郭公」「松風暮涼」「遇不逢恋」の3題で、各題13番、計39番、判者は衆議判で、勝負付はされたが、判詞は記されていない。

 

ここでの寂連の出詠歌は各題3首で、俊成卿女と番って持(引分)2、負1の成績であったが、その中から「遇不逢恋」の題詠歌を採り上げたい。

 

         八番  左持(引分)    俊成卿女

    夢かとよ見し面影も契りしも わすれずながらうつつならねば

   【夢であったのか。逢ったときのあの人の面影も、契りをかわしたことも、

    忘れてはいないものの、現実のことではないので】

 

              右         寂連

    里はあれぬむなしき床のあたりまで 身はならはしの秋風ぞ吹く

   【あの人が訪れてこないので、私が寂しく住んでいる里の宿はすっかり

    荒れてしまった。はかない独り寝の床のあたりまで。身は習慣で慣れる

    と堪えられる、男心の飽き、秋風が吹くことよ】

 

ところで寂連の歌は、『拾遺和歌集』(巻十四・恋四・九〇一番)に入集している次の歌から「身はならはしの」の句を本歌として、同一箇所に置いて詠んでいる。

 

        (題しらず)      (よみ人しらず)

    た枕のすきまの風もさむかりき 身はならはしの物にぞ有りける

   【共寝をしている時の手枕の隙間の風も寒かった。独り寝をしている今は、

    身は習慣で慣れると堪えられるものであることだ】

 

「遇不逢恋」の題詠歌で俊成卿女と寂蓮の勝負は引き分けとなったが、後に俊成卿女の歌は『新古今和歌集』(巻十五・恋五、一三九〇番)に、寂連の歌も『新古今和歌集』(巻十四・恋四、一三一二番)にそれぞれ入集している。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版