新古今の景色(136)院政期(111)女房歌人の発掘(10)俊成卿女(5)栴檀は双葉から(※)

既に「乱世の娘」で述べたように、俊成卿女は俊成卿の娘ではなく孫娘である。彼女は、藤原俊成と、大恋愛で結ばれた美福門院加賀との間に生まれた長女の八条院三条を母とし、藤原盛頼を父として生まれた。しかし、安元3年(1177)の鹿ヶ谷の変の首謀者として、父盛頼が兄の権大納言成親が備前の児島で惨殺された事に連座して官職を解かれたことから、祖父母の俊成、美福門院加賀に引き取られ、権門の土御門家の源通親の次男・通具の妻になるまでは9歳年上の叔父の定家とともに育てられた。

 

藤原定家は『明月記』に俊成卿女の祖母で定家の母の美福門院加賀はこの孫娘を非常に可愛がったと記している。

 

しかし、俊成は、この孫娘を、俊成卿女の母の八条院三条や、建春門院に仕えて建春門院中納言と呼ばれ、その後に八条院に仕えて八条院中納言と呼ばれて『たまはるき』を著した健御前や他の娘や孫娘達のように、上皇女院に仕える女房として育ててはいない。

 

むしろ、俊成卿女は、祖父母や定家から、「源氏物語」「伊勢物語」「狭衣物語」等の物語や「拾遺集」「古今集」「後撰集」などの古典和歌集などを学ぶ機会を与えられている(このことは、後年、後鳥羽院から召されて出詠して高い評価を受けた俊成卿女の本歌取り等の作品から私が推察したのだが)。

 

さらに、俊成卿女が文治4年(1188)に俊成が撰進して完成した「千載和歌集」の編集を手伝ったと伝えられが、その時の彼女が18歳前後と思われることから、俊成は彼女の歌才を早くから見抜いて、将来の御子左家を背負う女流歌人として育てる意図を抱いていたように思われる。

 

(※)栴檀は双葉から:「栴檀は双葉より芳し」より、栴檀は発芽の頃から早くも香気があるように、大成する人は子供の時から並外れてすぐれている。

 

参考文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                           田渕句美子 角川選書