祖父の藤原俊成から将来の御子左家を背負う女流歌人として育てられたと思える孫の俊成卿女は、建久元年(1190)頃に20歳で因幡守であった土御門家の次男源通具に嫁いでいる。
俊成卿女が、祖父俊成・叔父定家の主筋にあたる権門の九条兼実の政敵ともいえる、やはり権門の土御門家に嫁すということ自体が、私には余りにも突飛に思えたので、先ずは土御門家について調べてみた。
(1)権謀策術に長けた権門
土御門家は村上源氏。当主の源通親(久安5年~建仁2年)の父は内大臣久我雅通で母は八条院女房典薬助藤原行兼の娘。
通親は、平氏の全盛時に最初の妻を捨てて平清盛の姪を妻に迎え、平氏の支援を受けて政界に進出し、自らの地位の保全を図り、平氏が没落すると後白河院に接近し,院の孫で後の後鳥羽天皇の乳母であった高倉範子を妻に迎えて院の近臣として活躍。
さらに、後白河院寵愛の丹後局・高階栄子と結んで,範子の連れ子で通親の猶子となった在子を後鳥羽天皇の後宮に入れ、在子が第一皇子の為仁親王 (のちの土御門天皇 )を産むと隠然たる勢力をもつようになる。
建久6年 (1195)年、源頼朝が娘大姫の後鳥羽天皇への入内を望んだ時は頼朝に接近して入内の仲立ちを画策し,翌建久7年にはそれまで頼朝に接近していた政敵の九条兼実を追い落とすことに成功(建久の変)し、頼朝の娘の大姫入内も未完に終わらせている。
そして、建久9年(1198)1月には、猶子在子が産んだ為仁親王を土御門天皇として即位させ,天皇の外祖父,後鳥羽上皇の院司として絶大な権勢を振い、翌、建久10年には内大臣に昇り、反幕府勢力の拡大・育成に力を注いだ。
(2)文人の家
土御門家は権謀策術に長けた権門を特徴とするが(これは、俊成・定家の主筋にあたる九条家も同様)、一方で文人としてもすぐれた才能を発揮し、特に通親の『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記』は名著として名高い。
また、歌人の家としては、建仁元年(1201)7月,後鳥羽院の院宣によって開設された和歌所の寄人として、当代の有力歌人の藤原良経,藤原俊成・定家親子ら14人の寄人が任命されたが、その中に源通親・通具の親子も含まれ、さらに、その中から「新古今和歌集」撰者として、藤原有家,藤原定家,藤原家隆,藤原 (飛鳥井) 雅経,寂蓮と共に源通具も選ばれている。
特に源通親は、若い頃の嘉応2年(1170)秋には自邸で歌合を催し、さらに同年催された「住吉社歌合」、「建春門院滋子北面歌合」及び治承2年(1178)の別雷社歌合などに積極的に参加していた。
参考文献:『異端の皇女と女房歌人~式子内親王たちの新古今集』
田渕句美子 角川選書