[乱世の娘]
実は俊成卿女は俊成卿の娘ではなく孫娘である。
彼女は、藤原俊成と、大恋愛の末に彼の後妻となった美福門院加賀との間に生まれた長女の八条院三条を母とし、藤原盛綱を父として生まれた。しかし、安元3年(1177)の鹿ヶ谷の変(※1)で、父盛親の兄で後白河院の寵臣の正二位・権大納言成親が反逆罪に問われて備前の児島で惨殺され、弟の丹波守・成経が鬼界ヶ島に流された関連で盛親も解官され、その後少将の官には復帰したが官位はそこで留まり、その後は日陰者として生き、妻の八条院三条が正治2年(1200)に没した後もさらに十数年生き長らえ建保4年(1216)に俊成卿女が46歳の時に没している。
ここで、俊成卿女が二人の死を悼んで詠んだ歌を掲げたい。
母の死を詠んだ歌
消えはつる ゆふべもかなしあけ暮の 夢にまよひしはるのふるさと
父の死を詠んだ歌
露もおけ 涙もかかれふぢごろも ほさでも苔のはなれにき
俊成卿女は父盛綱の失脚後は祖父藤原俊成に引き取られ祖父母の寵愛を受けて育ちつつ、十代の終り頃には俊成撰集の勅撰集『千載和歌集』の編集助手的な役割を果たしていた。
[乱世の妻]
俊成卿女は二十歳で結婚するが、夫は土御門家の源通親(※2)の次男の通具(みちとも)、この権門との結婚は破局を迎え、その後の彼女は女性として不幸な後半を生きることになる。
それは、建久7年(1196)に、夫の父源通親の企てた政変によって祖父俊成の主筋にあたる九条家が政界を追われ、さらに夫の通具は、後鳥羽天皇譲位後に即位した源通親の養女・源在子が産んだ土御門天皇の乳母で新たな政界の権力者となった従三位按察(あぜち)を妻として迎え、俊成卿女は1男1女を抱えて夫と離縁する。
(※1)鹿ヶ谷の変:後白河法皇の近臣藤原成親・藤原成経・西光・僧俊寛らが中心となって治承元年(1177)京都郊外の鹿ヶ谷で平氏打倒の謀議を行ったことが密告されて、西光は死罪、成親は備前国に配流後殺害され、弟の成経を含む他は薩摩国鬼界ヶ島に流された。
(※2)源通親:村上源氏。後白河上皇の近臣で文治元年(1185)源頼朝の推薦で議奏公卿となり、後の建久7年(1196)頼朝と結んだ九条兼実を排斥し、後鳥羽天皇譲位後、外孫の土御門天皇を立てて朝廷の実権を握り、後鳥羽上皇のとき内大臣に昇進し鎌倉幕府に対抗した。
参考文献:『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書