新古今の景色(126)院政期(101)女房歌人の発掘へ

しかし、実際は、『源家長日記』が下記に述べるように女房歌人は枯渇したのではなく

 

【(歌道)は心ある人のむげに思ひ捨てぬ道なれば、さる人も侍らむ。しかれども、何のついでにか言ひ出だし初めむ。高き女房は、ひたすらに慎ましき事にして、言ひ出さず。又、身に恥じて慎む人も多かれば、何のたよりにか聞こゆべき。されば女の歌詠みは、この古人たち亡からむ後は、更に絶えなむずる事を、口惜しき事にたびたび仰せらる】。

 

つまり、後宮が文芸サロンとして競い合って女房歌人が中心的な役割を果たした摂関時代と大きく異なり、和歌所寄人に摂政太政大臣藤原良経、内大臣源通親天台座主慈円、御子左家の藤原俊成・定家親子など、貴人や公卿、そして歌道家の男性が中心的な役割を果たす後鳥羽院歌壇では、身分の高い上臈女房は自分が歌人であることをひた隠しにして自分からは言い出す事はなかった。

また、それほど身分の高くない女房であっても、貴顕の男性歌人が主導する歌壇に自分を押し出すことに怖じ気づいてひた隠す女房も多いので、なんらかのきっかけで女房歌人たちの消息が彼女たちの周辺から耳に入ってくることもなかった。

 

そういう状況であったからこそ、後鳥羽院は、小侍従・讃岐・丹後等の老女房歌人が亡くなった後に、歌壇に女房歌人が絶えてしまう事を危惧され、才能ある女房歌人を発掘するために、あれこれ手を尽くされたと、『源家長日記』は述べている。

 

引用文献 『異端の皇女と女房歌人』 田渕句美子著 角川選書