新古今の景色(125)院政期(100)後鳥羽院「女房歌人の絶滅」を懸念

建久9年(1198)1月11日に19歳で土御門天皇に譲位した後鳥羽院が和歌に注力をと考え始めていた正治2年(1200)の前半は、まだ、宮廷歌壇の片鱗も見られなかったが、正治2年の後半から精力的に和歌の催しを推進する。

 

とはいえ、後鳥羽院歌壇の事実上のスタートとなる、正治2年7月~9月に行われた3度の応制百首『院初度百首』(「正治初度百首」)に出詠した女房歌人は、小侍従、二条院讃岐、宜秋門院丹後の3人のベテランだけであった。

 

しかも、既に出家して宮仕えからも退出していた小侍従は当時80歳で、この直後に没したとされ、この頃60歳頃の二条院讃岐は既に出家して二条院及び宜秋門院任子への出仕から身を退いており、二条院讃岐の従姉妹の宜秋門院丹後はこの翌年の建仁元年(1201)頃出家したがその後も承元2年(1208)までは後鳥羽院歌壇の主要な女房歌人として出詠した。

 

【この頃世に女の歌詠み少なしなど、常に歎かせ給ふ。昔より歌よみと聞こゆる女房、少々侍り。殷富門院大輔も一年失せにけり。又讃岐、三河の内侍、丹後、少将(小侍従の誤植)など申す人々も、今は皆齡たけて、ひとへに後の世の営みして、ここかしこの庵に住み慣れて、歌の事も廃れ果てたれば、時々召されなどするも、念仏の妨げなりとぞ、内々には歎きあると聞き侍る。此の人々のほかは、またさらに聞こえず(中略)。

されば女の歌詠みは、この古人(ふるびと)亡からむ後は、更に絶えなむずる事を口惜しき事にたびたび仰せらる】

 

上記は後鳥羽院の命により和歌所の事務長を務めた源家長の『源家長日記』からの抜粋であるが、この文章からは、歌壇に女房歌人は不可欠と考えていた後鳥羽院の「このまま放置していては女房歌人が絶える」との危機感がひしひしと伝わってくる。

  

引用文献 『異端の皇女と女房歌人』 田渕句美子著 角川選書