新古今の景色(127)院政期(102)女房歌人の発掘(1)重代の上臈女房

さて、後鳥羽院の新進女房歌人の発掘はどのように行われたのであろうか。『源家長日記』によれば、当時の身分の高い上臈女房が男性歌人に混じって歌壇で競うことを遠慮する風潮を考慮して、【品高き女房は、はばかり思はるらむ。されど、重代の人は苦しからず、とて、尋ね出でさせ給ふ】と、つまり、身分の高い女房は、院歌壇に出詠するのを強く遠慮するであろうが、重代の歌人(※1)の女房は召しても差し支えないと判断されて、あちこちに声をかけ、これはと思う女房歌人後鳥羽院が直々に召して才能を見極めて、女院(※2)に仕える3人を新進女房歌人として採用した。当時は女院に仕える女房は位の高い上臈女房が多かった。 

 結果的に3人の新進女房歌人後鳥羽院の期待通り、『新古今和歌集』にすぐれた足跡を残すことになる。

 

(1)七条院越前:

   生没年未詳。建長元年(1249)頃は生存。後鳥羽院の母の七条院と後鳥羽院皇女

嘉福門院に仕えた。越前の父が大中臣公親(なかおおとみのきみちか)という重代の歌人であることが判明して、後鳥羽院が召して歌を詠ませると、「嵐を分くる小牡鹿(さおしか)の声」という歌を詠み、お目通りに叶って採用された。当時の彼女は二十歳前後であったがその後長く歌壇で活躍した。『新古今和歌集』7入集。

 

        『新古今和歌集 巻第一 春歌上』

       和歌所にて春山ノ月といふ心をよめる   越前

24 山ふかみ なほかげ寒し春の月 空かきくもり雪はふりつつ

  【深山なので春の月とはゆうものの、やはりその光は寒々としています。空は曇

   り、時々雪をもよおして】

 

        『新古今和歌集 巻第十二 恋歌二』

       久しき恋といへることを         越前

1140 夏引きの 手引きの糸の年へても 絶へぬ思ひにむすぼほれつつ

   【手引きの糸のように、長年経っても絶えることのないあの人への思慕に

    わたしの心は解けやらず結ぼおれています】

 

(2)八条院高倉

   治承2年(1178)頃出生、没年未詳。法印澄憲の娘、母は未詳。他方で二条天皇中宮高松院(鳥羽天皇皇女・姝子内親王)が若くして出家した後に、愛人法印澄憲との間に産れた娘との節もある。鳥羽天皇皇女・八条院に仕えた。「女房三十六歌仙」。

新古今和歌集』7首入集。

 

         『新古今和歌集 巻第一 春歌上』

       題しらず              八条院高倉

54 ひとりのみ、ながめて散りぬ梅の花 しるばかりなる人はとひこで

  【たったひとりで物思いにふけりながら見つめているうちに、梅の花は散って

  しまいました。この花の情趣を解するほどの人が訪れてほしい願いも空しく】

 

          『新古今和歌集 巻第十二 恋歌二』

                         八条院高倉

1146 つれもなき 人の心は うつせみの むなしき恋に 身をやかへてむ

   【つれないあのお方の心は蝉の抜け殻のようなもの。そういう空しい恋のた

    めに 私はこの身を引き換えにしてしまうのでしようか】

 

(3)七条院大納言

   生没年未詳。藤原実綱歌人の二条院参河内侍の娘。高倉院、後鳥羽天皇母七条

 院に仕えた。『新古今和歌集』3首入集。

 

         『新古今和歌集 巻第四 秋歌上』

      題知らず            七条院大納言

402 言(こと)問はむ 野島が崎の海人ごろも 波と月とにいかがしをるる

   【野島が崎の海人に尋ねましょう。あなたの衣は波と月とによって 

    どのようにしおれるのでしようか。】 

 

         『新古今和歌集 巻第十六 雑歌上』

       題知らず            七条院大納言

1494 思ひあれば 露はたもとにまがふかと 秋のはじめをたれに問はまし

   【秋が訪れたこのごろ、わたしは恋しい思いを抱いているので、いったい

    誰に尋ねたらよいのでしようか】

 

(※1)重代の歌人:親や祖先が勅撰集に入集した歌人

(※2)女院:にょいん、にょういんとも。天皇の母や三后内親王などに対して、朝

廷から与えられた尊称。皇居の門号を付すものを門院ともいう。待遇は院(上

皇)に准ずる。

 

引用文献 『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

     『異端の皇女と女房歌人』 田渕句美子著 角川選書