新古今の景色(138)院政期(113)女房歌人の発掘(12)俊成卿女(7)後鳥羽院女房出仕の演出は土御門家

ここで、俊成卿女が土御門家の源通具に嫁いで以降の足取りを歌人としての側面から辿ってみたい。

 

20歳の頃の俊成卿女が源通具と結婚したのは、建久3年(1192)以前、むしろ建久元年(1190)頃とみられ、建久5年(1194)に女子を、正治2年(1200)に長男具定を出産した。

 

・建久5年(1194)八月十五夜に催された『九条良経邸和歌会』に歌だけを詠進したのが俊成卿女の初めての歌壇への参加で、その時の歌が『俊成卿女集』の巻頭一首におかれている。

 

正治2年(1200)9月、夫通具と俊成卿女の二人だけで五十番歌合を行い、その判を定家に依頼して『通具・俊成卿女歌合』が成立したことが伝えられている。 

 

建仁元年(1201)3月に源通親が自邸で『影供歌合※』を催した時には、後鳥羽院がお忍びで参加、その席に、俊成卿女は通親のすすめで「新参(いままいり)」という作者名で新参女房のごとく出詠して6首の内4首で勝ち、後鳥羽院を驚かせている。

 

 ※影供歌会:影供のために行う歌合。特に柿本人麻呂の影像を祀って行う歌合。

 

      下図は、人麻呂影供を描いた親鸞の曾孫・覚如の伝記絵巻『慕帰絵』藤原隆章筆                      「芸術新潮2018年9月号より」

 

 

・同年(1201)八月十五夜に催された『和歌所撰歌合』に俊成卿女は直接ではなく、詠

進のみで参加。

 

・同年(1201)夏の『院第三度百首』『千五百番歌合』に俊成卿女が詠進した歌が、翌年以降に『歌合』に仕立てられて判定された時には30人中第6位というすばらしい評価を得た。

 

・同年(1201)9月『仙洞句題五十首』に詠進して歌人としての評価を決定的にし、後に、ここでの出詠歌から下記の歌が『新古今和歌集』「恋二」の巻頭に選ばれている。

  

     五十首歌たてまつりしに 寄雲恋  皇太后太夫俊成女

1082 下燃えに思ひ消えなん煙だに あとなき雲のはてぞ悲しき

 

  ※後鳥羽院は『新古今和歌集』編纂にあたり、定家・家隆・俊成卿女の歌を各々部

   の巻頭におくように指示し、「恋二」の巻頭におかれたこの歌は彼女の代表作と

   なった。

      

そして、後鳥羽院は、『院第三度百首』『仙洞句題五十首』などの俊成卿女の作品の出来映えから、その天分に驚嘆し、彼女を自分の身近に召して歌壇に参加させる事を強く願って出仕を命じたのであった。

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

          田渕句美子 角川選書