新古今の景色(62)院政期(37)歌林苑(27)道因(1)歌への執念

『無名抄』で鴨長明は、歌に命をかけて九十余才まで生きた老法師の凄まじい執念のありようを「63 道因歌に志深きこと」で見事に活写している。

 

【歌道への志の深さにおいては道因入道(※1)に並ぶ者はいません。入道は70~80歳になるまでは「どうか良い歌を詠ませてください」と毎月都から摂津の住吉神社(※2)まで歩いて祈願のお参りをしていた事からも歌への執心が半端ではなかったことを示しています。

 

また、ある歌合で、判者の藤原清輔が道因の歌を負けと判定した時に、わざわざ清輔の屋敷に出向いて涙を流しながら恨み言を述べた時など、会の主催者であった亭主は何とも言いようがなく「あれ程の大事に遭うとは思いもよりませんでした」と後で語っていました。

 

その道因が90歳になったころは耳も遠くなり、歌合の席で人を掻き分けて講師(※3)の脇にぴったり身を寄せて、老い屈んだ姿で一心に聞き入る様子はとてもいい加減な事とは思われませんでした。

 

そして、『千載和歌集』(※4)に道因の歌が選ばれたのは彼が亡くなった後であったのですが、それでも生前の彼の歌への志を考慮した撰者の藤原俊成が当初は18首を選んだのですが、その後、撰者の夢の中に道因が現れてはらはらと涙を流しつつ喜んだということで、心を動かさた俊成がさらに2首を加え、合わせて20首が採用されることになったのも、当然の事です】

 

と、長明は賛辞を込めて道因の歌への執念・姿勢を描いていますが、これは、長明自身が『千載和歌集』に一句選ばれただけでも有頂天になった心境を同じ『無名抄』の「12 千載集に予一首入るを喜ぶこと」で吐露した事と照らし合わせれば納得できます。

 

鴨長明の時代は、自ら歌人と自認する者にとって歌合で勝つこと、『千載和歌集』『「新古今和歌集』などの勅撰集に自分の歌が採用されることが何よりの生き甲斐であったのですが、このことは、人間の「承認欲求」が時代を超えて如何に根強いものであるかを物語っています。

 

 

(※1)道因入道(だういんにゅうどう):俗名は藤原敦頼。寛治4年(1090)生まれで没年未詳。承安2年(1172)出家、治承3年(1179)には90歳で生存、寿永元年(1183)頃までには没。治部丞清孝の息子、従五位上左馬助。歌林苑会衆。『千載和歌集』初出、勅撰集40首入集。『千載和歌集』20首、『新古今和歌集』4首入集。

 

(※2)住吉神社大阪市住吉区住吉にある元官幣神社。摂津一の宮

 

(※3)講師(こうじ):歌合の席で参加者の歌を詠みあげて披露する役。

 

(※4)『千載和歌集』:後白河法皇の命で藤原俊成が撰集した勅撰和歌集で文治3年(1187)に完成。20巻、約1200首を収める。

 

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫