平経正の父平 経盛(たいら の つねもり)は、平忠盛の三男で清盛の異母弟に当たるが、生母の身分の低さもあって当初から異母弟の教盛・頼盛よりも昇進は遅かったが、父・忠盛から歌人としての素養を受け継ぎ、仁和寺御室守覚法親王(鳥羽天皇第五皇子)の仁和寺歌会や二条天皇の内裏歌会などに座を連ね、さらに自らも歌合を催し、藤原清輔とも親密に交流していた。『千載和歌集』にはよみ人知らずとして1首入首している。
そのような父経盛から歌人としての素養を受け継いだ経正は、幼少時に仁和寺覚性法親王に仕えた事もあって仁和寺歌会を始めとして『住吉社歌合』『広田社歌合』『別雷社歌合』に出詠、また自らも藤原俊成を判者に迎えて歌合を催し、『千載和歌集』に(読み人しらず)で次の2首が入集している。
『千載和歌集』 巻第三 夏歌 よみ人知らず
199 山ふかみ火串(ほくし)の松はつきぬれど 鹿に思ひを猶かくるかな
【山深くまで入ったので火串の松明も尽きてしまったけれど、鹿への
思いをまだ掛け続けていることだ】
『千載和歌集』 巻第四 秋歌上
題不知 よみ人知らず
246 いかなればうは葉をわたる秋風に した折れすらむ 野辺のかるかや
【一体どういうわけで上葉を吹き渡る秋風に下折れしたりするのだろう、
野辺の刈萱は】
方や以仁王を奉じて平家追悼の兵を挙げるも宇治川の合戦で治承4年(1180)に敗死した源頼政・仲綱親子、方や寿永3年(1184年)の一ノ谷合戦において、川越重房の手勢に討ち取られて敗死した平経正。
乱世の時代、この3人が歌林苑会衆としてどのように交流したのか想像するだけでも興味は尽きない。
片野達郎、松野陽一 校注 岩波書店刊行