新古今の景色(63)院政期(38)歌林苑(28)道因(2)出自は藤原北家

さて、無常の時代に歌への激しい執念を燃やして90余才まで生きた道因とは一体どのような人物であろうか。知られている略歴は次の通り。

 

道因の俗名は藤原敦頼。藤原北家の高藤の末裔で治部丞清孝の息子として寛治4年(1090)生に生まれ、没年未詳だが、治承3年(1179)「右大臣兼実歌合」に出詠して90才での存命が確認され、寿永元年(1183)年頃までには没と伝えられる。

極官は従五位上左馬助、承安2年(1172)に83才で出家。歌林苑会衆。『千載和歌集』初出、勅撰集40首入集、『千載和歌集』20首、『新古今和歌集』4首入集。

 

私は長明の「無名抄 63 道因歌に志深きこと」を読み、それ以来、道因は下級貴族の出で、若いときから俗世を見切って出家し、登連のように一途に歌に勤しんだと勝手に思い込んでいたが、何と藤原北家の出で出家ではないか。そして83才までは俗名の藤原敦頼でいたとは。

 

ところで藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男房前を祖とする藤原四家の一つで、房前の邸宅が兄の武智麻呂の邸宅より北に位置したことに由来する。

 

藤原四家間の政争は激しかったが、嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭して文徳天皇の、冬嗣の子の良房が清和天皇の、良房の養子(甥)の基経が朱雀天皇村上天皇の外祖父となり、三代にわたって天皇外戚の地位を維持したことから、北家嫡流藤氏長者=摂政関白の基盤が固まり、それ以降はこの系統による「摂関政治」が後の道長・頼通父子の時代に全盛を極め、その子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。

 

余談だが後白河法皇の命によって描かれた『国宝:伴大納言絵巻』から、藤原北家による摂関政治の基盤は、清和天皇の外祖父として強い影響力を発揮した藤原良房によって更に強固になったと読み取る人も少なくない。 

 

その「伴大納言絵巻」は清和天皇の御代の貞観8年(866)閏3月10日の夜、内裏の重要な門の一つ応天門が炎上し、その原因は時の大納言伴義男の放火によるとされた事件の推移と結末に至る物語を、12世紀後半に語られた説話を基に描かれている。

 

 ここで当時の政治的状況を見ると、『伴大納言絵巻』(小学館ギャラリー)は、「三代実録」や「大鏡」を引用して、当時の大納言伴義男は大伴氏の系統を引く有能かつ野心満々の実力者で、一方の嵯峨天皇の皇子で初代源氏の左大臣源信とは何かと対立し、二人の間にはしばしば不穏な動きが見られたが、応天門の変を起こすほどの理由は見られなかったとしている。

 

その上で「応天門の変」の結末を見ると、

①大納言伴義男は伊豆に配流、②左大臣源信は疑いが晴れずに死去、③右大臣藤原良相は辞職を請願しつつ死去、④太政大臣藤原良房だけがライバル視していた弟までも退けて政治権力を一手に握る。

 

この結末を導いたのは、清和天皇に最も影響力を与えることの出来る外祖父の藤原良房の進言(あるいは讒言)の結果であろうとの推測が通念となっているが、なぜなら、下図の天皇に対面する後姿の男が、駆けつけたままの烏帽子・直衣の略式服でありながら、寝所の髻(もとどり)も露な素顔の清和天皇に会えるのは、天皇の外祖父である藤原良房の他には考えられないという根拠から。

 

 

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(写真は『伴大納言絵巻』(小学館ギャラリー 新編名宝日本の美術12)より)。

 

  

参考文献:『新日本古典文学大系 千載和歌集

           片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店       

参考web:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/touren.html