新古今の景色(88)院政期(63)寂蓮の遁世(1)中務少輔定長

鎌倉初期の歌人後鳥羽院設置の和歌所の寄人となり、栄えある『新古今和歌集』の撰者に選ばれながら撰進の途中に没した寂蓮は保延5年(1139)頃に生まれ、建仁2年(1202)頃に64才で没したとされる。

 

寂蓮の俗名は藤原定長、醍醐寺阿闍梨(※1)俊海の息子として生まれた。彼の官吏生活は19歳頃の保元2年(1157)に二条天皇(※2)から従五位下中務少輔を賜った頃に始まり、その後に従五位上に昇進し、永万元年(1165)の二条天皇崩御を経て仁安3年(1168)の高倉天皇の即位直後まで続いた。

 

ところで、定長が中務少輔として務めた中務省とはどういう役所かと言えば、律令制の八省の一つで、天皇側近に侍従し、詔勅の文案を審署し、宣旨・上表の受納・奏進、国史の監修、女官の名帳および叙位、諸国の戸籍・租税帳および僧尼名籍などを取り扱う例外的に帯剣した文官で、卿・大輔・少輔・丞・録などの官位がある。

 

俗世時代の寂蓮が、二条天皇に仕えた頃を偲ぶ歌としては、仁安2年(1167)に催された『平経盛朝臣歌合』で中務少輔定長の名で詠進した次の歌が挙げられる。

 

       二條院宮白川にはじめて住給ひけるころ、

       祝いのこゝろを草子に書付よとおほせられければ

   水上の程だに遠き白河の 流れの末をおもひこそやれ

 

       白河の花ちりがたに、人々まかりければ、風あらく吹て、

       名残なきまで花の散ければ

   たづねつる人は家路も忘られで 花のみけふはねにかへる哉

 

他方で舞にも優れていた定長は、中務少輔の名前で賀茂祭並びに石清水八幡宮臨時祭の舞楽舞人を幾度か務めており、『寂蓮集』には「石清水八幡宮臨時祭の舞人の折の歌」として次の歌が収められている。

 

       石清水臨時の祭舞人しけるに、彼の御山にたち宿りける家のあるじ、

       又来ん春も相待つべきよし申しければ、思ふ所ありけん

  又も来ん春とはえこそ石清水 たちまふべくも有りがたき世に

  【再び来年の春の石清水の祭にやって来てくれて、待っているとのことであるが、

   舞人として舞うことのありそうにない時世であるので】

 

この歌は嘉応2年(1170)春の折のものと思われるが、定長がこれ以降舞人をつとめた記録がみられないところをみると、既に出家・遁世を念頭に置いていのではないかと思われる。

 

(※1)阿闍梨あじゃり):①師範たるべき高徳の僧の称。②密教で修行が一定の階梯に達し、伝法灌頂により秘法を伝授された僧。③日本で、天台・真言の僧位。

 

(※2)二条天皇後白河天皇の第1皇子。名は守仁。六条天皇に譲位。二条の皇居で没す。院政を目論む父・後白河院と対立した。康治2年(1143)~ 永万元年(1165)。在位:保元3年(1158)~ 永万元年(1165)

                                          

 

参考文献:『日本歌人講座第3巻 中性の歌人Ⅰ』

          文学博士久松潜一 文学博士實方清編       弘文堂

     『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版