次に『新古今和歌集』(巻第五 秋歌下 469番)にも採られた寂蓮の秋部の「露」を歌材に詠んだ次の歌を採りあげたい。
物思ふ袖より露やならひけむ 秋風吹けばたへぬものとは
【露は物思うわたしの袖の涙から習ったのだろうか。秋風が吹けば堪えかねて
散るということを。】
古来、「露」は、『万葉集』(第十二巻3042番)よみ人しらずの下記の歌でもしられるように、「古今和歌集」以降の勅撰集に歌材として多く詠まれてきた。
朝日指 春日能小野尓 置露乃 可消吾身 惜雲無
【朝日がさす春日の小野に置く露に似て、やがて消えてゆこうとする我が
身は惜しくもなし】
ここでは下の句の「たへぬもの」の解釈に焦点を当ててみたい。
先ず、新古今和歌集については、『新古今和歌集』(小宮本)では「たへぬ物とは」の句を「絶ぬ」と記し、『新古今和歌集』(烏丸本・鷹司本)では「たえぬ」と本文に記している。
また、『新古今集聞書(後抄)』では「秋風ふけばこぼるる物なれど、又やがてをく故に、たえぬ物といえり」と、秋風が吹けば露はこぼれる物であるが、またすぐ置くために、絶えないものと言っているとして「絶えぬ」の意味を採用している。
ところが本居宣長は『美濃の家づと』で、「ふるき抄に、たへぬを、絶ずとおくことと注したるはたがへり」と記し、本来は「堪えることができない」の意味であると指摘している。
さて、寂蓮の詠んだ「物思ふ袖より露やならひけむ 秋風吹けばたへぬものとは」における『たへぬものとは』は、感情としての「堪え難い」を意味するのか、露は消えても次の露が置かれるという物理的な「絶えぬ」を表わしているのか。
ところで、21世紀に生きる私としては、自然現象の「露」を、置く物と表現する視点に目を見張った。寂蓮のこの歌を読んで、真っ先に思い浮かんだのは「一体誰が露を置くのよ」と身も蓋もない疑問だった。英語ではないが主語がないではないか。
しかし、それはそれとして、「露を置く」とは何と神秘的な表現であろうか。露が発生するのは殆ど夜半と思われるが、一体どのような存在(神か霊か)が、どのような手業で木や草の葉の上にそっと露を置くのであろうか。実に詩心だけでなく絵心も誘われる表現である。
参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版
『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上』久保田淳 校注 新潮社版