新古今の景色(106)院政期(81)寂蓮の遁世(19)『千五百番歌合』(2)

寂蓮の次の歌も『新古今和歌集』(巻二・春下、一五四番)に入集しており、判者は釈阿(俊成)。

 

         二百八十一番    左   有家朝臣

    わぎもこがくれなゐぞめのいはつつじ いはでちしほの色ぞ見えける

             【私のいとしい人の緋色に染めた衣 岩つつじは 何も言わないで

               繰り返し幾度も染めた色に見えたことだ】

 

             右勝            寂蓮

            おもひたつとりはふるすもたのむらむ なれぬる花のあとのゆふぐれ 

             【桜の花が散ってしまったので、さあ、もう、帰ろうと、飛び立つ鳥には

               あてにする古巣があるのであろう。それにひきかえ、私は、馴れ親しんだ

               桜の花が散ってしまった後の夕暮の寂しさをなんとしたらいいものか】

 

           判詞           釈阿

 左歌、いはつつじ ちしほの色ふかくも見え侍るを、右歌、なれぬる花のあと

   ゆふぐれ、宜しく侍りけるにやと見え侍り、勝ちにてや侍るべからん。

 

ところで寂蓮が詠んだ歌は、『千載和歌集』(巻二・春下、一二二番)に入集している崇徳院御製の次の歌から影響を受けたとされている。

 

        百首歌めしける時、くれの春のこころをよませたまひける

    花はねに鳥はふるすにかへるなり 春のとまりをしる人ぞなき

             【春の終りとともに花は根に、鳥は古巣に帰ってゆくのに、春の行き着く

                所はだれも知らないのだ】

 

保元の乱に破れて配流先の讃岐で長寛2年(1164)に46才で崩御された崇徳院を深く敬慕していた寂蓮は、建久2年(1191)頃の四国修行の旅の途次に、讃岐の院御所跡訪れ次の歌を詠んでいる。

 

   崇徳院さぬきの国におはしましけるところ、修行のついでに参りて、

   月のあかくはべりける夜、よみて奉りて侍りける   寂蓮

  【崇徳院が讃岐の国におられた所に、仏道を修めるために巡り歩いた折りに

   うかがって、月の明るい夜、詠んで差し上げました】

 

    むかしみし月は雲ゐの影ながら 庭はよもぎの露ぞこぼるる

   【昔見た月(院の面影)は雲居(宮中においでの頃)の光のままで、

            庭の蓬に露が置き、涙がこぼれ落ちることよ】

 

後に後小松院(※)が寂蓮のこの歌を「新古今和歌集第一の歌であると」讃えた逸話が『新古今抜書』(簗瀬一雄氏蔵本)に次のように記されている。

 

『此歌筆舌にのべがたき物也。花になれにし鳥も、落下すればかへらんと思ひたつなり。それはふるすともたのむに、われは日ごろなれにし花にわかれて ぼうぜんとしてくわんこん行かたもしらずとわびたる心なり。この歌此集第一と後小松のいんゐいかんありしよし、ある人の物語候しなり』

 

(※)後小松院:南北朝末期・室町初期の天皇(1377~1433)。後円融天皇の第1皇子。1932年(明徳3年)南北朝が合一。譲位後、院政。在位(1382~1412)。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版