(5)箱根の山越え 『寂連集』より
寂連法師10月ばかりに、あづまのかたへまかりけるに、はこねといふ
山をなんこえける、所のありさまあやしく、よのつねにはかはれりけり、
はるかに嶺に上りてはうみをわたり、谷にくだりては雪をふむ、さる程
に、風は木の葉をまくりあげて、時雨のふもとよりのぼりければ、
よみ侍りける
【寂連法師が10月頃に東国の方面に出かけて、箱根という山を越えました。
その土地のあり様は不思議で普通とは違っていました。遠くの嶺を登って
は湖を渡り、谷を下っては雪を踏む。そうこうしているうちに、風が吹き
木の葉をまくり上げて、時雨が山のすそより昇ってきたので詠みました】
旅のそら雪踏む嶺を分け行けば しぐれは袖の下よりぞする
【旅先の地で空を行く雲を踏んで山頂を押し分けて進んだところ、時雨は
袖の下から降ってきたよ】
古来箱根は歌枕として有名であるが、『能因歌枕』『名所歌枕』など、歌学書には多く採り上げられているが、歌会の名所題としては余り採用されていない。
とは言え、『更級日記』では、菅原孝標女が上総の国より上京するとき、「足柄山」の周辺の情況を次のように記している。
まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐ろしげなる事いはむ方なし。雲は足の
したに踏まる。
【まだ夜明け前より足柄山を越える。いうまでもなく山の中の恐ろしいあり様は何
とも言い難い。雲は足下で流れ動いている】
(6)崇徳院(※)の讃岐の御所跡を訪れて、『玄玉和歌集』より
崇徳院さぬきの国におはしましける時、修行のついでに参りて、月の
あかく侍りける夜、よみて奉りて侍りける 寂連
【崇徳院が讃岐の国にお住まいだった所の跡に、仏道を修めるために巡り
歩いた折にうかがって、月の明るい夜、詠んで差し上げました】
むかしみし月は雲ゐの影ながら 庭はよもぎの露ぞこぼるる
【昔見た月(院の面影)は雲居(宮中)の光のままで、庭の蓬の上の露は
涙がこぼれ落ちるようだ】
この歌は、建久元年(1190)前後に、寂連が弘法大師(空海)の生誕地である讃岐の普通寺(仲多度郡)等の遺跡を巡った折に立ち寄って詠んだとされるが、西行の四国行脚の跡を巡ったとも伝えられる。
(※)嵩徳院:元永元年(1119)~長寛二年(1164)。鳥羽天皇の第1皇子。父から譲位させられ、保元の乱に破れ讃岐に配流され、同地で46歳で崩御。
(7)閑居虫の歌 『寂連集』より
あずまのかたに侍りける比、十月ばかり、閑居虫
【東国の方面におりました十月頃 閑居虫】
よそにおもふ人ののみかは虫の音も かれ野の末の庵なりけり
【都から遠く離れた東の地で思うことよ。はた目見るだけであろうか、虫の
鳴き声も寂しく聞こえ、枯れ野の果ての閑寂な庵であるなあ】
この歌は旅先の東国での感慨を初冬の枯れ野で鳴く虫の音と、庵の閑寂なたたずまい
とを一体化して詠んでいる。
旅の歌人とも称さる寂蓮はこのほかにも奈良の柿本人麻呂の墓や宇治山の喜撰跡、住吉大社などを訪れて歌を詠んでいる。
30代半ばから50代という働き盛りの時期に、このような詠歌行脚に踏み切った寂蓮にとって、宮仕えや第2の世俗とされる権門官寺に身を置く選択肢はなかったのではないか。
参考文献:『日本の作家100人 人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版