新古今の景色(96)院政期(71)寂蓮の遁世(9)詠歌行脚(2)聖地-1

先回は、寂蓮の詠歌行脚から贈答歌を採り上げたが、次は信仰、和歌、並びに物語に因んだ聖地巡りで詠んだ歌を2回に亘って採り上げてみたい。

 

(1)『伊勢物語』の芦屋の灘の塩屋を訪れて、『寂蓮集』より

 

養和元年(1181)頃に、寂蓮が摂津の国の芦屋に塩湯浴みに行って布引の滝(摂津国の歌枕)に立ち寄った時の歌

 

     摂津国の蘆屋という所に、しほゆあみける時、布引の瀧見にまかりて、

     月の出るまてありけり

  山風に雲のしがらみよはからじ 月さへおつる布引のたき

 【山風が吹いて雲のかけた柵が弱くはないであろうに、月まで流れ落ちる布引の

  滝だよ】

 

(2)高野山参詣の歌、『千載和歌集・巻第十九・釈教 1236番』より

 

     高野にまいりてよに侍りける       寂蓮法師

  あか月を高野の山に待つほどや 苔の下にも有明けの月 

 【弥勒菩薩が世に現れる竜華の暁を高野山で待っている間、墓の下にも弘法大師

  が入定しておられ、有明の月(竜華の暁)を待っておいでになることだ】

 

(3)出雲大参籠で詠んだ歌、『寂蓮集』より

 

     出雲のきつきの宮にまいりて、いずも川の邉にて

  出雲川ふるきみなとをたづぬれば はるかにつたふ和歌の浦なみ

 【出雲川の古い河口を訪れてみると、川の流れが上流から下流へ流れるように、

  遙か昔に、須佐男之男命が「八雲立つ」と詠んで以来、伝えられている和歌の道で

  あるよ】

 

この歌は寂蓮が元久元年、あるいは文治6年(1190)の春に出雲大社に参籠したときに詠んだもので、歌に詠まれた須佐男之男命の「八雲立つ」は、三十一文字の定型短歌の起源とされており、寂蓮はその定型和歌の発祥の地を訪れて感慨を覚えたのであろう。因みに出雲川とは現在の斐伊川である。

 

さらに寂蓮は出雲大社の千木の片削ぎが本殿の背後の八雲山の半ばまでそびえ立つ雄大な情景に感動して次の歌を詠んでいる。

 

     出雲の大社に詣で見侍れば、あま雲たなびく山のなかばまでかたそぎの

     見えけるなん、此世のこととはおぼえざりける

  やはらぐる光や空にみちぬらん 雲に分け入るちぎのかたそぎ

 【春の穏やかな日差しが空に満ちあふれていることであろう。千木の片削ぎが雲に

  分け入っているよ】

   

(4)『伊勢物語』を偲ぶ宇津の山越えの歌、『寂蓮集』より

 

     末の秋あずまの道にて、手越はつくらといふところにて

  越えてこしうつの山路にはふ蔦も つたもけふや時雨に色はつくらむ

 【越えてきた宇津の山路に蔦が這い延びているのも、今日は時雨に濡れて

  紅葉していることであろう】

 

この歌は、建久2年(1191)9~10月頃に東国へ旅だった折に、宇津の山(駿河国の歌枕)を越えてきたときに詠んだもので、宇津の山は『伊勢物語』(第九段)の次の文章で知られていた。

 

 行き行きて、駿河国にいたりぬ。宇津の山に至りて、わが入らむとする道は、いと

 暗う細きに、つたかへでは茂り。

【どんどん歩いて、駿河国に着き、宇津の山に行き着いて、これから私が入ろうとする

道は とても暗く細い上に蔦や楓が茂っている】

 

参考文献:『日本の作家100人 人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版