新古今の景色(100)院政期(75)寂蓮の遁世(13)『別雷社歌合』

寂蓮は出家直後から福原遷都の前後の頃までは柿本人麻呂墓所など都の周辺の和歌に関わる遺跡や歌枕の名所巡り、晩年の建久1年から2年にかけては出雲大社東下りなど漂泊の旅を通して歌作りに磨きをかけていたが、他方では遁世歌人という自由な立場を得て、流派や階層を越えた様々な「歌合」に座を連ねて多様な歌人と交流していった。

 

ここでは、出家後から後鳥羽院に召されるまでの寂蓮が出詠した幾つかの歌合を辿ってみたい。

 

先ずは出家後の寂蓮が初めて出詠した『別雷社歌合』から。

 

『別雷社歌合』は、治承2年(1178)3月15日に俊恵が主唱する歌林苑の会衆でもあり、パトロンでもあった加茂重保が賀茂別雷神社上賀茂神社)の社頭で催したもので、この時40歳であった寂蓮は初めて「寂蓮」を名乗っている。

 

因みに、寂蓮と別雷社(上賀茂神社)との繋がりは、仁安2年(1167)11月21日の賀茂臨時祭で寂蓮(定長)が舞人を務めたことに遡る。

 

さて、この歌合の出詠歌人は60人、判者は藤原俊成、歌題は「霞」「花」「述懐」の三題で、各歌題について三首を出詠したもので、寂蓮は平忠度(※)と競って、勝1、持(引分)2の成績であった。

 

その中から、寂蓮が出家の真情を吐露したと思われる歌題「述懐」の一つを採りあげたい。

 

         18番左  持(引分)     忠度

ひたすらに祈るにあらず恨みかね そむきはつべきよともしらせよ

【いちずに神仏に祈願することではないよ 恨みもできずに俗世を捨てて出家すると

きと知るべきよ】

 

            右            寂蓮

世の中のうきは今こそうれしけれ 思ひしらずばいとはざらまし

【この世の憂き事を知ったのは今となっては嬉しいことだったのか。もしこの憂き事を知らずにいたなら、俗世を厭って出家したであろうか、いや、しなかったであろう】

 

   

            判詞           俊成

左の歌の心ざしいとよろしくみえ侍り、右もことなるよせありてはみえ侍らねど、歌姿、

文字つづき いうに侍るなるべし、仍って持(引分)とすべし。

【左の歌の忠度の歌の意向大変好ましく見える。右の寂蓮の歌も詞の上の縁があるよ

うに見えないけれど、歌の姿、文字の続き具合がすぐれている。そこで、引き分けとす

るのがふさわしい。】

 

判者の藤原俊成にとって、寂蓮はかつて自分の後継者として養子にした愛弟子、方や忠度は平忠盛の息子で全盛を誇る清盛の弟ながら平家武士には珍しく和歌をたしなみ俊成を師と仰ぐ弟子、そんな2人への愛情が判詞から伝わってくる。

 

(※)平忠度(たいらのただのり):平安末期の武将。忠盛の息子で清盛の弟。従四位上薩摩守。和歌をよくし、自宅でも歌合を催す。一ノ谷戦で戦死。平家西走の途中で京に引き返し、和歌の師であった藤原俊成に自らの歌集一巻を託した逸話を『平家物語』は~忠度都落ち~で述べている

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版