新古今の景色(54)院政期(29)歌林苑(19)殷富門院大輔(2)

殷富門院大輔は、藤原定家西行源頼政・寂蓮(※1)・隆信(※2)など多くの歌人と親交を深めたとされるが、ここでは寂蓮・隆信との交流の一端を紹介したい。

 

嘉応2年(1170)の『住吉社歌合』は、和歌の神社として尊ばれていた住吉社の社頭・藤原敦頼が催したもので、歌題「社頭月」・「旅宿時雨」・「述懐」の三題を殷富門院大輔・小侍従、中務少輔定長(後の寂蓮)を含む50人の歌人が番えて競ったもので、判者は藤原俊成であった。


この歌合から当時は前斎宮大輔と名乗っていた殷富門院大輔と定長が競った「述懐」から、定長の出家への迷いが感じられるとされる次の歌を採りあげたい。

 

       左勝       前斎宮大輔
すみよしのなごのはまべにあさりして けふぞしりぬるいけるかひをば

【住みよしという名で名高い、住吉の名児の海の浜辺で魚や海藻などをとって、

今日生きている価値を知ったことだ。】

 

       右        定長

なげかじな よはさだめなきことのみか うきをもゆめとおもひなせかし

【嘆くことはないことよ。この世の中は無常であることだけであろうか。

憂きことをも夢と思うことにせよ。】

 

判詞       藤原俊成
左歌、こころしかるべし、すがた又ひとつの体なるべし、右歌も、ひとつの俗にちかきすがたなれど、ことのみか、と、おき、なせかし などいへる、なほ むげにすてたることばなり、左をこそはかつと申すべく

【左の大輔の歌は、趣がふさわしい。表現の方法もまた一つの様式である。右の定長の歌も、一つの世俗的に近い表現の仕方であるが、「ことのみか」と置き、「なせかし」と読んでいる。やはり捨てた表現である。左の大輔の歌を勝ちとするのがふさわしい。】

 

次に『殷富門院大輔集』から、定長が出家する直前の承安2年(1172)に詠まれたとされる、殷富門院大輔・定長・隆信の間で交わされた贈答歌を引用したい。

 

   9月つごもりに、ひとびと秋のわかれをしむうたどもよまれしついでに
ゆく秋のわかれはいつもあるものを けふはじめたる心ちのみする
【去って行く秋との別れは毎年あるものを、今日初めてのような気持ちばかりすることよ】

 

    かくてものがたりなどしくらして、かへられしに
たづねくるかひこそなけれゆく秋の わかれにそへてかへるけしきは
【訪れて下さった価値がないことよ。去って行く秋との別れに加えて、帰って行く様

子は】

 

    かへし         右京権大夫たかのぶ
ゆく秋のわかれにそへてかへらずは なにゆゑきみがをしむべき身ぞ
【去って行く秋との別れと共に帰らなかったら、どうしてあなたが惜しんでくれる我 が身であろうか】

 

    又           なかつかさのせうさだなが
かぎりあらむ 秋こそあらめ我をだに まてしばしともいはばこそあらめ
【秋には終わりがあるから良いのであろう。私にもうしばらく待ってほしいとのことであれば結構であるが、そうでなければ秋と共に帰ることよ】

 

まさに、この贈答歌の頃の定長と隆信が、鴨長明が『無名抄』「64 隆信・定長一双のこと』で述べた二人の力が伯仲した時期に該当するのであろうか。

https://k-sako.hatenablog.com/entries/2015/05/01

 

(※1)寂蓮:俗名は定長(藤原):保延5年(1139頃)〜建仁2年(1203)。長家流。僧俊海の息子で伯父俊成の猶子となるが定家の出生により出家して寂蓮と称す。中務少輔従五位上。和歌所寄人。『新古今和歌集』撰者となるが撰進前に没、35首入集。享年六十余歳。

 

(※2)藤原隆信:康治元年(1142)〜元久2年(1205)。長良流、為経の息子。母は美福門院加賀で定家の異父兄。右京権太夫正四位下。似絵(肖像画)の名手。晩年に出家して号を戒心。和歌所寄人。『新古今和歌集』3首入集。享年64歳。

 

参考文献: 『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版