新古今の景色(121)院政期(96)小侍従の遁世(6)落飾の二代の后

家集「小侍従集」によると、小侍従(※)が、治承3年(1178)3月に59歳で突然出家して八幡八幡宮に引き籠った時に、かつての主の太皇大皇宮多子(まさるこ)から何故出家をした事を知らせてくれなかったかと問われて

 

   とふ人も波に漂ふ海士小舟(あまこぶね) うみは今ぞ漕ぎ帰りぬる

 

と返歌して、程なくして多子が遁世していた近衛河原の太宮に出入りするようになった。

 

ここでは、出家後の小侍従が再び仕えることになった太皇大皇宮多子の波乱の人生に触れてみたい。

 

太皇大皇宮多子(1140~1202)は、閑院流・藤原公能を父に、藤原豪子(藤原俊忠の娘)を母に生まれ、同母兄に後徳大寺左大臣藤原実定を持つ。

美貌の多子は幼い頃より父の姉妹の夫の藤原頼長(1120~1156)の養女となり、娘のいない頼長は彼女を早くから后候補と考えて、9歳の彼女を久安4年(1148)に従三位に叙させて、さらに11歳の久安六年(1150)正月に近衛天皇(1139~1155)に入内させ、直後の3月には摂関家の力で皇后に立てている。

 

病弱の近衛天皇が久寿2(1155)に17歳で崩御すると、多子は近衛河原に隠居するが、保元3年(1158)には19歳の若さで太皇太后に立てられている。

 

そして後白河天皇退位後に皇子守仁親王が保元3年(1158)に二条天皇として即位して、先々帝の皇后だった多子の入内を強く望んだ事で、彼女の運命は大きく変転する。

 

天皇の皇后だった女性がもう一度入内するのは前代未聞のことであったが、「これで待ち望んだ天皇の外祖父になれる」と野心を抱いた多子の実父の公能は、渋る多子に入内を強く勧め、永暦元年(1160)二条天皇後宮に入内した事で、多子は「二代の后」として後世に語り継がれることになる。

 

ところが、父・公能の野望も儚く、永万二年(1165)7月、二条天皇は23歳の若さで崩御し、 再び寡婦になった多子は同年12月に26歳で落飾して近衛河原の大宮に再び遁世し、建仁元年(1201)12月に62歳で世を去る。

 

 

(※)小侍従:生没年未詳。石清水八幡宮別当紀光清の娘、母は歌人小大進。建仁元年(1201)に80余歳で生存か。夫の権中納言正三位・藤原伊実(近衛天皇中宮呈子の兄・正室従三位刑部卿範兼の娘)死後二条帝に仕え、その崩御後は太宮(大皇太后多子)、高倉天皇に仕えた後に治承3年(1179)に59歳で突然出家。「待宵小侍従」と称される。家集『小侍従集』を著す。『千載和歌集』初出6首入集、『新古今和歌集』7首入集。