都うつりの比(ころ)後徳大寺左大臣、太皇大皇宮に参りて、
女房の中にて夜もすがら月を見て物語などして、暁帰りける時、
小侍従送り出でて侍りけるに、ともにありて申しける
藤原経伊
ものかはと君が言ひけむ鳥の音の 今朝しもなどか悲しけるらん
上記は『新拾遺集(※1)』に採られた後徳大寺実定の側近・藤原経伊の歌で、
それに対する小侍従の返歌は『平家物語 巻第五 月見』によれば、
またばこそ更けゆく鐘もつらからめ あかぬ別れの鳥の音ぞ憂き
と、記されている。
ここで、再び「宵待の小侍従」の名を世に知らしめることになった『平家物語 巻第五 月見』に立ち返ってみたい。
治承4年(1180)6月8日に新都の事始めがあり、8月10日棟上げ、10月7日に御遷幸と定められて、全てが福原新都に靡き、旧都は廃れる中、8月の10日余りの日に、徳大寺の左大将実定卿は、旧都の月を慕って平家方の了承を得て、妹の太皇大皇宮多子が棲む近衛河原の大宮に向かうが、かつての華やかな名残りはなく、草木が繁茂する荒れ果てた邸だけが残されていた。
実定が邸に案内された時、妹の太皇大皇宮多子は南殿の格子を上げさせて琵琶を弾いていたが、突然現れた兄を見て「これは夢かや、うつつかや、これへ、これへ」と請じ入れて、有明の月を眺めながら、多子は旧都の荒れ行く様を、実定は新都の住みよさ等を心ゆくまで語りあう。
さて、夜が明けて、後徳大寺実定が暇を告げる時「小侍従が余りにも名残惜しげに見えるので」と、伴に連れてきていた側近の藤原経伊に小侍従と唱和させたのが上記の贈答歌である。
この時の小侍従は60歳か、前年出家して八幡に遁世していたが、既に出家していたかつての主の多子に求められて再び仕え、わずかな女房達と共に荒廃した近衛河原の大宮に遁世していたのである。
(※)新拾遺集:新拾遺和歌集(しんしゅういわかしゅう)。勅撰和歌集。二十一代集の一。20巻。南北朝時代の貞治2年(1363)、二条為明(ためあきら)が北朝の後光厳天皇の勅を報じて撰したが完成に至らず没したので頓阿が後を引き継ぎ貞治3年(1364)成る。
参考文献:『新潮日本古典集成 平家物語 中』 水原一 校注 新潮社
『女歌の系譜』 馬場あき子著 朝日選書