『新潮日本古典集成 新古今和歌集 下』巻末の著者略歴を一覧して見えてきたのは、総じて歌道家(歌の家)の一族の長命さである。
ここでの歌道家(歌の家)とは、中世に宮廷の諸領域で形成された「家」の一つで、歌道家は天皇・上皇の命を受けて勅撰和歌集の撰者となって撰進を行うとともに、宮廷和歌の指導者として位置づけられる家であり、天皇・上皇の文化支配を支える家である。
まずは、白河法皇の院宣により太治2年(1127)年頃に成立した『金葉和歌集』の単独撰者を務めた源俊頼の「六条源家」から始めたい。
「六条源家」とは、藤原顕輔の興した「六条藤家」に対して称されたもので、源経信・俊頼・俊恵に連なる「歌の家」を指す。六条源家の70歳以上の長命を保った歌人と『新古今和歌集』入集数は次の通り。
〃俊頼(経信の息子) 〃75歳 木工頭従4位上 11首
俊恵(俊頼の息子) 〃72歳(推定) 東大寺の僧 12首
「六条源家」の祖となる源経信は、後一条天皇から堀河天皇までの六朝に仕え、音楽・詩・歌のいずれにも優れて藤原公任と共に三船の才と称された。『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に86首入集し、家集『大納言経信集』を著した。
経信の息子の俊頼は、堀河天皇のもとで歌壇の指導者となり、「堀河百首(※1)」を企画して成功をおさめ組題百首の流れを定着させた。さらに白河院の命により勅撰集『金葉和歌集』を撰進した。
著作面では、関白忠実の娘で鳥羽院皇后の高陽院の和歌の手引書として著した歌論書『俊頼髄脳』が当時の歌壇に大きな影響を与え、家集『散木奇歌集』を著した。
『金葉和歌集』以下の勅撰集に200余首入集しているが、特に『千載和歌集』では最多の52首が採られ、選者の藤原俊成から高く評価された。
俊頼の息子の俊恵は17歳で父と死別して東大寺の僧となり、白河の自坊を歌林苑(※2)と称して、僧侶・下級貴族・女房など広い層にわたる多くの歌人が自由な雰囲気で歌を詠む一種の歌壇を形成した。鴨長明の師であり、藤原俊成・定家親子の御子左家とは異なった形で新古今歌風の樹立に影響を与えた。
『詞華和歌集』以下の勅撰集に49首入集し、家集『林葉和歌集』を著した。
(※1)堀河百首:百首歌。一題一首、全百題を多人数で詠んだ最初の組題百首和歌。歌題は大江匡房、詠者は藤原公経、源俊頼など16名。中世和歌に大きな影響を与えた。
(※2)歌林苑(かりんえん):俊恵が白川の僧坊に開いた歌会グループ。1156年頃から約20年間に亘って、源頼政・藤原隆信・賀茂重保・鴨長明・寂連・小侍従・二条院讃岐・殷冨門院大輔など地下の僧俗を中心に月例の歌会のほか会衆の送別の歌会をしばしば催した。
参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上・下』久保田淳 校注