待つ宵の 更けゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは 『平家物語 巻第五 月見』によれば、この1首によって「待宵の小侍従(※1)」の名は決定的になったと下記のように記されている。 〔そもそもこの女房を「待宵」と召されけることは、あるとき、太宮…
寂連の入滅した日は明確ではないが、彼が出詠した最後の歌合は、後鳥羽院が建仁2年(1202)5月26日に主催した『仙洞影供歌合』とされる。 その一ヶ月後の寂蓮と近しかった藤原定家の6月29日の『明月記』には、 〔廿日、天陰、炎暑之間衆病競起甚…
ところで寂蓮は和歌の名手だけではなく、舞の名手として、さらには能書家としても広く知られている。舞については、29歳の仁安2年(1167)に賀茂臨時祭の舞人を務めたことが平信範の日記『兵範記』に、31歳の仁安4年(1169)と翌年の嘉応元年…
建仁2年(1202)5月26日に後鳥羽院が主催した『仙洞影供歌合』は、寂連最後の歌合とされ、その2ヶ月後の7月に寂連は入滅した。 ところで「影供歌合」とは元永元年(1118)、平安期の歌人・藤原顕季が歌会の場に、歌聖と称された柿本人麿の像を…
更に続けて『三体和歌会』での寂蓮の詠歌を見てゆきたい。 夏 太くおおきに読むべし 夏の夜の有明の空に郭公 月よりおつる夜半の一声 (夏の夜の明けようとする頃の空に、郭公の月の内より出てくるかと思われる 夜半の一声がする) 秋 からびほそく読むべし …
『三体和歌会』は、後鳥羽院の主催で建仁2年(1202)3月20日に仙洞御所で催され、連なった歌人は、後鳥羽院・良経・慈円・定家・家隆・寂連・長明の7人で、雅経と有家も召されたが病気を理由に辞退している。 この『三体和歌会』に関しては、後鳥羽…
月をテーマとした「結題(むすびだい)」十題五十番で競われた『撰歌合』で、寂連の詠歌は「月多秋友」「月前松風」「河月似氷」の3題が撰歌され、慈円、保季、通具に対して勝3の成績であった。 その中から慈円と対して勝ちとなった「月多秋友」の歌を採り…
次に、寂蓮の歌は登場しないが、新古今時代の転換期を象徴するとされる「海辺秋月」の題詠歌から「働く海人」をモチーフにした3人の詠歌を採り上げたい。 先ずは二条院讃岐と番えて勝ちとなり、後に『新古今和歌集』(秋上・四〇一番)に入集した鴨長明の次…
『撰歌合』は建仁元年(1201)8月15日夜に和歌所にて催された後鳥羽院主催の歌合で、歌人は判者の釈阿(俊成)を含めて25人、双方の難陳(※1)が記されているのが興味深く、判詞は簡略であった。 歌題は、「月多秋友」「月前松風」「月下擣衣」「…
後鳥羽院は『新古今和歌集』撰集のために建仁元年(1201)7月27日に二条殿の広御所に和歌所を設置し、寂蓮は和歌所寄人の1人に選ばれた。 ここでは後鳥羽院が和歌所を設置した直後に初めて同所で催した『和歌所影供歌合』を採りあげたい。 この歌合…
寂蓮の次の歌も『新古今和歌集』(巻二・春下、一五四番)に入集しており、判者は釈阿(俊成)。 二百八十一番 左 有家朝臣 わぎもこがくれなゐぞめのいはつつじ いはでちしほの色ぞ見えける 【私のいとしい人の緋色に染めた衣 岩つつじは 何も言わないで 繰…
『千五百番歌合』とは後鳥羽院が主催した正治2年(1200)の『院初度百首』と同年の『院第2度百首』、及び建仁2年(1201)の『院第3度百首』を後に歌合として纏め、それに判詞あるいは判歌を付して史上最大の「歌合」にしたもので、この中から『…
次に『新古今和歌集』(巻第五 秋歌下 469番)にも採られた寂蓮の秋部の「露」を歌材に詠んだ次の歌を採りあげたい。 物思ふ袖より露やならひけむ 秋風吹けばたへぬものとは 【露は物思うわたしの袖の涙から習ったのだろうか。秋風が吹けば堪えかねて 散…
正治から建仁期(1199~1203)は後鳥羽院の主導による仙洞歌壇が形成されていったが、その最初の催しが正治2年(1200)の『院初度百首』で、正治2年7月に後鳥羽院から寂蓮に『正治2年院初度百首』への沙汰があり寂蓮は8月に寂蓮百首歌を提…
『六百番歌合』は、55歳の寂蓮が配流された崇徳院御所跡を初めとする四国讃岐への詠歌行脚を終えて出詠した歌合で、建久4年(1193)に左大将藤原良経が催したものである。 この歌合は、歌人の詠進が同年の正月頃から始まり成立は同年秋から暮れ頃まで…
出家後の寂蓮が後鳥羽院に召されるまでに九条歌壇で出詠した主な歌合は次の通りである。 ①治承3年(1179)『右大臣兼実家歌合』 この間に都の周辺、高野山、出雲大社などへ詠歌行脚 ②建久元年(1190)『左大将良経邸花月百首』 この間に東国地方、…
寂蓮は出家直後から福原遷都の前後の頃までは柿本人麻呂の墓所など都の周辺の和歌に関わる遺跡や歌枕の名所巡り、晩年の建久1年から2年にかけては出雲大社や東下りなど漂泊の旅を通して歌作りに磨きをかけていたが、他方では遁世歌人という自由な立場を得…
『住吉社歌合』は寂蓮が出家する前の嘉応2年(1170)10月9日に、藤原敦頼が和歌の神社として尊ばれていた住吉社の社頭で催したもので、「社頭月」「旅宿時雨」「述懐」の三題を、定長を含む歌人50人が番えて、各歌題25番、計75番を競った歌合…
在俗時代の寂蓮が詠進した主な歌合は、『平経盛朝臣家歌合』、『実国卿家歌合』、『住吉社歌合』、『公通家十首会』、『宰相入道観蓮歌合』、『後徳大寺実定家結題百首』などが挙げられるがその中から『平経盛朝臣家歌合』と『住吉社歌合』を採り上げてみた…
(5)箱根の山越え 『寂連集』より 寂連法師10月ばかりに、あづまのかたへまかりけるに、はこねといふ 山をなんこえける、所のありさまあやしく、よのつねにはかはれりけり、 はるかに嶺に上りてはうみをわたり、谷にくだりては雪をふむ、さる程 に、風は…
先回は、寂蓮の詠歌行脚から贈答歌を採り上げたが、次は信仰、和歌、並びに物語に因んだ聖地巡りで詠んだ歌を2回に亘って採り上げてみたい。 (1)『伊勢物語』の芦屋の灘の塩屋を訪れて、『寂蓮集』より 養和元年(1181)頃に、寂蓮が摂津の国の芦屋に塩…
寂蓮は34才で出家する承安2年(1172)年前後から治承4年(1180)6月の福原遷都の頃までは難波の地への塩湯浴み・高安の都・大神神社・いわれの池・磯上寺・人麿の墓所・北山の二条院の墓所・布引の滝・住吉神社等へ旅をし、その後は、建久元年…
34才の藤原定長が承安2年(1172)に出家をして寂蓮と称した後の消息について、後鳥羽院に仕えて和歌所の事務長を務めた源家長は『源家長日記』で次のように記している。 「世の事わりは昔もおぼしめししりけめども、此比ぞみちみちにつけてはいづれも…
寂蓮が生きた時代は、公家(※1)・公卿(2)といえども長子に家督を継がせるのが精々で、それ以外の男子を高官に着任させるほどの権力は既に持ち合わせておらず、それでも家の威光と財力を有する公卿は息子を延暦寺・醍醐寺・興福寺・仁和寺などの官寺(※…
寂蓮の出家の背景については、歌の家「御子左家」の確立を目論む藤原俊成の要望で養子になったものの、俊成が49歳の時に誕生した定家こそ後継者にふさわしいと自ら身を引いたとの理由が一般的であるが、それはそれとして、私は当時が「出家・遁世の時代」…
藤原定長が出家をして寂蓮と称したのは34才の承安2年(1172)頃とされるが、その直前の承安元年2月15日に嵯峨の釈迦堂(清涼寺)を詣でた折に、彼の出家の戒師を務めたとされる静蓮(※1)に出家を約した時に交わした次の贈答歌が『寂蓮集』に収めら…
定長が出家する直前の承安2年(1172)に成立したとされる『歌仙落書』は、藤原公光・藤原清輔・徳大寺実定・藤原為経(寂超)・小侍従・殷富門院大輔・二条院讃岐など、当時の代表的な歌人20人の詠歌を収めたもので、定長もその1人として4首が収め…
『尊卑分脈』(※1)によれば、藤原定長(寂蓮)は久安年間(1145~1150)の末頃、藤原俊成の養子になっている。この時、俊成には既に嫡男の成家がいたが、彼に歌道の御子左家(※2)を継がせる才能はないと見切りをつけた俊成が、当時12、3才な…
鎌倉初期の歌人で後鳥羽院設置の和歌所の寄人となり、栄えある『新古今和歌集』の撰者に選ばれながら撰進の途中に没した寂蓮は保延5年(1139)頃に生まれ、建仁2年(1202)頃に64才で没したとされる。 寂蓮の俗名は藤原定長、醍醐寺の阿闍梨(※…
摂家相続流の前大僧正を初めとする藤原氏、共に戦場に散る運命にあった源平武士、六条藤家を代表する歌人、下級貴族、年配の女官、神官そして遁世僧、身分・階層の敷居が極めて高い院政期にあって、このような多様な人々が、歌風、流派を超えてひたすら歌へ…