ある日、カフェでのんびりと『西行全歌集』のページを捲っていたところ、「山家集 中」に収められた西行と小侍従の次のような贈答歌が目に入ってきた。
院(後白川院)の小侍従、例ならぬ事大事に臥し沈みて
年月経にけりと聞こえて、訪(とぶら)ひにまかりたりけるに、
この程少しよろしきよし申(まう)して、人にも聞かせぬ
和琴(わごん)の手弾きならしけるを聞きて
922 琴の音に涙を添へて流すかな 絶えなましかばと思ふあはれに
返し
933 頼むべきこともなき身を今日(けふ)までも
何にかかれる玉の緒ならむ
小侍従は、従姉妹の殷富門院大輔・歌林苑の会衆・源頼政・平経盛・後徳大寺実定など
多くの歌人との交流で知られているが、西行とも親しくしていたのだ
しかも、小侍従が、後白河院に仕えていた頃となると、かなり若いときのやりとりであろう。この歌から小侍従が若い頃大病に臥していたこと、そして和琴を弾ける女性であったことが窺える。
ところで、小侍従の家集『小侍従集』には、源頼政(※2)との贈答歌が最も多く収められ、その中でも恋愛を模した贈答歌には味わい深いものが多いとされる。ここでは、次の歌から2人のやりとりを味わってみたい。
源三位頼政もの申すころ、二、三日音づれぬ風さえおこりて
心ぼそければ
小侍従
とへかしな浮き世の仲にありありて 心とけつる恋の病を
いかば生き死なば後(おく)れじ君ゆえに
我もつきにし同じ病を
上の贈答歌は、小侍従、頼政の双方に忙しくていろいろ支障があってなかなか顔を合わせる事ができなかった状況を詠ったもので、時に小侍従は40代、頼政は60歳前後とされ、恋というよりは恋を装った面白づくしの贈答歌とされている。
滞る春より先の山水を 絶えはてぬとや人は知るらむ
【春に先立ちまず凍り滞ってしまう山川の水を
絶えはててしまったなどと思われるのでしようね】
小侍従
滞るほどかとききし山河の 絶えはてけるは春ぞしらるる
【いまは凍ってしまっている時期で、とか、言っておられた山川も、
本当はやはり絶え果てていたのだとは、すっかり春になった今こそ
思い知られますよ】
上の贈答歌は、頼政が小侍従と逢う都合がつかず、年の瀬も迫ったつもごりに、その旨を歌に託して小侍従に贈ったところ、小侍従はわざと返歌を正月15日まで引き延ばして贈っている。
そんな歌のやりとりを交わしている時に、突然小侍従が59歳の治承3年(1178)3月に出家して八幡に引き籠った時には、かつての主の太皇大皇宮多子(まさるこ)、その兄・後徳大寺実定を初め多方面から驚きの問い合わせがあったが、とりわけ頼政の「自分こそ先立つはずの出家の道に、あなたを先立ててしまった」との歌への次の返歌は親しみと共に真情を吐露している。
おくれじと契りしことを待つほどに やすらふ道も誰ゆゑにそは
【しるべをして下さる日を待っていましたのに あなたのご出家がおくれて
いるのはもしやどなたかのためなのでは】
その頼政は翌月の4月に待望の従三位に昇り、さらに小侍従に2ヶ月遅れて5月に出家を遂げたものの、翌年の治承4年5月、頼政が77歳の時に以仁王を奉じて平家追討を計るも戦いに敗れて宇治平等院で自死している。しかし、この戦いが源氏の挙兵を促し平家滅亡への狼煙となった。
(※1)山家集(さんかしゅう):西行の歌集。3巻。編者・成立年未詳。歌風は平
明で用語も自由。仏教的世界観を基礎に歌境を広めかつ深め、自然詠と述懐に
秀歌が多い。約千六百首。
(※2)源頼政(みなもとのよりまさ):(1104~1180)平安末期の武将。
摂津源氏源仲政の長男。白河法皇に抜擢されて兵庫頭。保元・平治の乱に功を
たてた。剃髪して世に源三位入道と称す。後に後白河天皇の第三皇子・以仁王
(もちひとおう)を奉じて平氏追討を図り、戦に敗れて宇治平等院で自死。
宮中で鵺(ぬえ)を退治した武勇伝は有名。家集『源三位頼政集』
参考文献:『西行全歌集』 久保田淳・吉野朋美 校注 岩波文庫
『女歌の系譜』馬場あき子著