さらにさかのぼれば、小侍従が26歳か27歳の頃で、久我雅通(※1)も中将か参議の若かった久安・仁平の時代(1145~53)、二人が人目を忍ぶ熱烈な恋人だった事を偲ばせる恋の唱和4首が『小侍従集』に残されている。
雅通
儚さもあふ名なりけり夏の日も 見るほどありと覚えやはせず
小侍従
思ひわび絶ゆるる命もあるものを あふ名のみやは儚かるべき
ある夏の日に小侍従が2、3日逗留した雅通の邸から帰ってくると、雅通のもと
から余りにも短すぎた2人で過ごした日々の思いを伝えてきたが、それに対して小侍
従は「逢う毎に立つ浮き名のみが儚いのではなく、あなたを思うとほとんど死ぬ程に
つらく、もろく儚い命とおもえる」と、返している。
さらに『小侍従集』には以下の2首も収められている。
小侍従
哀れいつ よかはの篝(かがり)かげ消えて ありし思ひの
果てときかれむ
この歌は二人の関係が疎遠になったことを恨んで雅通に贈った歌、
思へただ この言の葉を返しては 何にかくべき露の命ぞ
さらに、この歌は、二人の仲について悪い噂が立ったことを怨んだ雅通から、
これまで雅通が小侍従に贈った秘めやかな手紙を全て返してほしいと頼んできた
ことに対する返し歌。
上記の歌からは、鴨長明が『無名抄 65 大輔・小侍従一双のこと』で、小侍従について〔小侍従ははなやかに目驚くところを詠み据うる(※2)ことのすぐれたりしなり。中にも歌の返し(※3)することは、誰にもすぐれたりとぞ。〕と評した「返し歌の名手」の素養が既に若い頃から発揮されていたことが見て取れる。
(※1)久我雅通:源雅通。元水元年(1118)~承安5年(1175)。享年58歳。村上源氏。父は源顕通。叔父雅定の養子となる。内大臣正二位。久我内大臣と呼ばれる。『千載集』初出、『新古今和歌集』1首入集。
(※2)はなやかに目驚くところを詠み据うる:人をはっと驚かせるようなところを
しっかりと読む。
(※3)歌の返し:返歌
参考文献:『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書
:『無名抄』鴨長明 久保田 淳:訳注 角川文庫