新古今の景色(47)院政期(22)歌林苑(12)源頼政(1)

清和源氏の棟梁で、治承4年(1180)に以仁王を奉じて平家に謀叛し、77才で敗死した源頼政(※1)については既に詳しく採り上げているので、

 

https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/153946

https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2020/05/29/213921

 

ここでは、歌林苑会衆としての源頼政を採り上げたい。

 

鴨長明は『無名抄』「8 頼政の歌、俊恵選ぶこと」で俊恵と源頼政の深い繋がりを、次のように述べている。

 

[建春門院殿上歌合(※2)の題詠歌「関路落葉」で、頼政は次の歌を詠んで勝を得、さらに『千載和歌集 秋下』に入集した。

 

  都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関

  【旅立った時の都ではまだ青葉の状態で見たが、紅葉が散り敷いているよ、

   ここ白河の関では】

 

ところで、歌会・歌合の出詠に備えて常に準備に怠りのない頼政は、「関路落葉」の題で幾つかの歌を準備し、どの作品を出詠するかで悩んだ末に、やはりこの歌をと決めたものの、今一つ自信が持てなかったのか、歌合に出席する間際に俊恵を呼び寄せて歌を見せた。

 

そして、俊恵から

「この歌は、能因法師の『(都をば霞とともに立ちしかど)秋風ぞ吹く白河の関』と似ています。しかし、そうであっても、この歌は歌合の場で詠むと一層栄えるに違いないと私は思います。貴方は、あの能因法師の歌とは異なる詠み方ができるのだと、むしろ能因法師の歌を圧倒する意気込みで詠んだと私は見ました。ということで、似ているから欠点とすべき歌の姿ではないと思います」

との心強い意見を得て、頼政は、車に乗る直前に、

「あなたの判断を信じて、この歌を出詠する事にしよう。後の責任はとってもらいますよ」と言って出かけていった。

 

その後、勝ちの判定を得た頼政が帰宅後すぐに遣わした礼を受けた俊恵は、

「私は良いと思って自分の意見を述べたが、勝負の結果を聞くまでは胸が潰れる思いをした。しかし、その結果を知って、自分ながら『たいそうな手柄を立てた』と思ったものです」と、俊恵は私に語りました。]

 

(※1)源頼政:長治元年(1104)~治承4年(1180)。享年77歳。清和源氏、仲正の息子。仲綱・二条院讃岐の父。蔵人・兵庫頭を経て右京権太夫従三位に至る。治承4年5月後白河院皇子以仁王を戴き平家追討の兵を挙げたが宇治川の合戦で敗れ、平等院で自害した。家集『源三位頼政集』

 

(※2)建春門院殿上歌合:建春門院北面歌合。嘉応2年(1170)10月19日(歌合本文は10月16日)に催された。題は「関路落葉」「水鳥近馴」など3題。作者は藤原実定・同隆季・同俊成・同重家・同清輔・同隆信・源頼政・同仲綱等20名。判者は藤原俊成

 

 参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫